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「『南三陸名物オクトパス君』を次代に残す」作り手たちの奮闘と挑戦【南三陸YES工房】

宮城県南三陸町の北西部、周囲には森林が生い茂る入谷地区。幹線道路から集落に入り、少し坂を上がった場所に1軒の建物がある。旧入谷中学校の木造校舎を改良して建てられたこの「南三陸YES工房」では、町の名産品である「オクトパス君」を作っている。そんなYES工房で代表理事を務める大森丈広さんの未来に向けた奮闘に迫る。

2009年にタコのオクトパス君が誕生

YES工房の理事で、当時は町の観光事業に携わっていた阿部忠義さんが、地元名物のタコをモチーフに作った文鎮が始まりだ。「置くと(受験などに)パス」する合格祈願のアイテムとして売り出すと、一躍人気に。以来、合格祈願のお守りとしてオクトパス君はこの町のシンボルにもなった。

「22年末からハンズ仙台店で特設コーナーを作ってくれたおかげもあって、この1年でオクトパス君の文鎮は約3000個、合格鉛筆は2万本以上も売れました」

こう語るのは、YES工房で代表理事を務める大森丈広さん。8人の従業員とともに、この工房で和気藹々とものづくりに打ち込んでいる。

YES工房は、東日本大震災後、地域住民の雇用確保と交流の場として開業。オクトパス君やオーダー木製品などを製造・販売するほか、教育機関や企業などに向けた体験ワークショップを実施している。

当初は期間限定でクローズする事業だったが、いつしかここで働く人たちにとって大切な「居場所」となった。しかしながら、慈善事業ではないため、工房を継続するには売り上げを伸ばすことが不可欠なのである。

「地域資源を生かしたものづくりができる職場は、町内にそうありません。自分たちにとっても大事な場所だから、収益を上げて継続性を担保したい。復興応援の気持ちに頼った展開だけでは駄目だと感じ、ネットショップを強化するなどしてきました。オクトパス君も販路が増えてきたし、少子化といえども、受験は人生の中のビッグイベント。もっと力を入れていきたい」

大森さんはこう力強く意気込む。YES工房の今、そして未来に向けた奮闘を追った。

商品パッケージや看板。町の至るところにオクトパス君が

11年7月に立ち上がったYES工房は、震災復興を応援したいという人たちが商品を買い求めたこともあって、11年度はいきなり1億円近くの売り上げに。翌年にはオクトパス君をゆるキャラ化。より愛着のある姿になったことで、活用の幅が広がった。今ではすっかり南三陸町の顔だ。オクトパス君を使用する商品企画はライセンス費をもらって運用している。

「オクトパス君は、さんさん商店街の土産品のパッケージにも使ってもらっています。企業や行政が価値を見出してくれて、商品に使いたいという機会が増えました。それに伴い、明確なルールがお互いに必要だと感じ、近年はライセンスなどの整備を進めています」

オクトパス君が現在のキャラクターになったのは、大森さんの力が大きい。幼少期から絵を描くことが好きだった大森さんは、高校では美術部に所属。卒業後、地元・南三陸町を離れて東京のデザイン系専門学校に進学した。その後は都内のゲーム制作会社に就職し、腕を磨きながら、キャラクタービジネスなども学んだ。

ただ、対人コミュニケーションがあまり得意ではなかったという大森さんは、05年に退社。宮城に戻り、仙台市でゲームセンター運営会社に転職した。「祖父が体調を崩したタイミングでもあったし、対人関係が苦手だったので、接客業に就けば克服できるのではと考えました」と大森さんは振り返る。

しかしながら、再びデザイン関係の仕事に就きたいと考え、11年2月に会社を辞めた。その1か月後、東日本大震災が起きる。

「頑張れ!」ではなく「ゆるく応援」

当時は仙台で妹との二人暮らし。両親は南三陸町にいたが、共に無事だった。しばらくは仙台と南三陸町を行き来していたが、家族で一緒に暮らした方が安心だと、11年5月ごろに大森さんは故郷へと戻る。

南三陸町・保健福祉課の臨時職員として、震災で亡くなった人たちの遺体安置所になっていた町総合体育館に詰め、警察と役場をつなぐ役割を担った。YES工房のことを知ったのは、町役場で働いていた時のことだった。自分のデザイン力を生かせるのではと考えた大森さんはYES工房の門を叩き、12年7月から働き始めた。

上述したように、このタイミングでオクトパス君はゆるキャラ化した。「正面を向いたパターンのイラストは、震災後に支援で来ていた方が描いてくれて、その後、私が加わってからは、工房の皆でアイディアを出し合い、いろいろなポーズのパターンとか、脇役とかを作りました」と大森さんは説明する。

脇役というのは、オクトパス君のサブキャラクターのことで、現在6体いる。このように世界観を広げていったのは理由がある。15年ごろからオクトパス君のコンセプトを「頑張る人をゆるく応援する」に変えたからだ。

「元々、オクトパス君は合格祈願の縁起物として生まれ、震災後は復興応援のために買っていただきました。でも、YES工房が存続していくためには、支援ばかりに頼っていては駄目だと思いました。その時に、オクトパス君を購入してくれた方はどんな人だろうと、顧客アンケートを調べたところ、ゆるい表情に癒されたという意見と、文鎮の重量感がいいという意見の2つに集約されました」

大森さんは、この「ゆるさ」に着目した。自身が就職氷河期世代で、苦労しながら就活した時に頑張れと言われたことがずっと心に残っていた。

「いや、もう頑張っているんだけど、これ以上何を頑張ればいいのか、と思っていたことがあって。頑張れという掛け声ではなく、ゆるく応援することが大事なんじゃないかなと思ったのがきっかけです」

ゆるく応援するキャラクターというオクトパス君の世界観を作り、広げていく上では、脇役が必要だと考えた。メインとサブのキャラクターがいなければ世界観は広がらないということを東京のゲーム制作会社で学んだからだった。

そうして、最初に生まれた脇役は「ムラサキウニ」と「バフンウニ」。その1年後に「アンモナイト老師」が作られた。世界観が広がったことで、オクトパス君が自由にどんどん一人歩きするようになった。それが商品パッケージなどでの採用につながっているのは言うまでもないだろう。

若い世代にオクトパス君を継いでもらいたい

オクトパス君がゆるキャラ化されてから10年以上が過ぎ、その認知度は格段に高まっている。これは大森さんを中心としたYES工房メンバーの功績が大きい。

しかし、工房の将来を見据えると課題はある。最たるものは若手の確保だ。

「オクトパス君のファンは増えていて、わざわざ九州からここまで来てくれた人もいます。そうした人たちと接するうちに、オクトパス君は今の工房のメンバーがいなくなっても引き継がれて、何十年も残ってほしいなと考えるようになりました。でも、若い世代が加わってくれないとオクトパス君を守っていけないし、育てることもできない」

大森さんは続ける。

「YES工房がこの地域にある理由は何か、ずっと考えてきました。単に商品を作るだけなら東京でも同じことはできてしまいます。自問自答する中でふと思ったのが、若者の雇用の受け皿です。そうした場所があれば、若い人が町に残る理由になるし、それこそが、YES工房がこの地域で活動する意味にもなるはず」

地元の若者の多くは高校を卒業した後、外に出ていってしまう。そして、ここで働きたいと思えるような場所がなければ、すぐに再び帰ってくることは難しいだろう。そうした場所を用意するのが務めだと大森さんは感じている。

若者の存在はYES工房のためだけでなく、南三陸町全体についても同じだという。

「復興に向けたまちづくりの様子を見てきて思うのは、若い世代のためになっているかどうかが大切だということ。震災後、いろいろなハコモノができました。それを否定するつもりはないけど、維持管理のツケはいつか必ず回ってきます。そう考えると、まちづくりは若い世代のためであってほしい。若者が残る理由って、そもそも地元に仕事があるとか、子育てする環境が整っているとか、そういうことが大事ですよね」

では、そのために大森さんは何をするのか。

「将来役に立つようなスキルを少しでも伝えたいです。私であれば、グラフィックデザインのソフトを地域の子どもたちにレクチャーする機会を設けたい。自分自身の経験から、社会人になる前に、そうした職業スキルを学べる環境がこの町にあったらいいなと思います」

せっかく希望する会社に就職したのに、うまくいかずに辞めてしまう。そういった経験をしてほしくないと大森さんは願う。そのために、学校教育以外の分野でYES工房が関われる余地があると考える。

また最近は、学校の総合学習の授業に講師として呼ばれることがある。その場で大森さんはよく「大人の意見を盲目的に信じるのではなく、自分で見聞きして、自分の頭で考えることが大切」だと学生に話すそうだ。自分自身が成人した今、大人も何が正しいかを悩みながら生きているのを実感しているからだ。

ゆるく応援するというオクトパス君のコンセプトは、大森さん自身のメッセージや生き方にも重なる。改めてそう強く感じることができた。

南三陸YES工房

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