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南三陸町の高校教員が伝えたい「地域住民と中高生の交流」の大切さ【志津川高校】

2022年、異例の商品が話題になった。

カップ麺「ペヤング」と宮城県南三陸町の志津川高校がコラボレーションし、2月7日に「たこめし風やきそば」を全国で発売した。それだけでは飽き足らず、2月下旬には「わさび醬油やきそば」、そして11月には「たっぷりわかめやきそば」と立て続けに新商品を販売したのである。

一高校とのこれほどまでの取り組みは、まるか食品としても初めてのことだった。

南三陸町では箱買いする町民が続出し、スーパーマーケットやコンビニエンスストアでは品切れが相次いだ。反響は地元だけにとどまらない。全国から志津川高校に電話やメールが多数寄せられた。

「秋田にいる卒業生ですとか、大阪で暮らしている卒業生ですとか、南三陸にゆかりのある全国の人たちから急に連絡が入ってきました。口々に、勇気をもらったとか、誇りに思うとか。嬉しかったですね」

こう振り返るのは、志津川高校の根本博教諭(52)。今回のコラボ商品は、同校の「商業部」の生徒たちがアイデアを出したことがきっかけで生まれた。商業部は、主に地元のイベントに出店したり、ボランティアに参加したりするほか、地域の調査研究なども行なっている部活動である。根本さんはこの部の顧問だ。

元を辿れば、根本さん自身がペヤングの大ファンで、生徒たちと「何か新しい味を考えてみたいね」と話していたそうだ。21年8月、60種類のフレーバーのアイデアを一方的に送ると、しばらくしてまるか食品の社長から学校長宛にメールが届く。そこには「ぜひ一緒に共同開発しませんか?」と書かれていた。まさか商品化されるとは思っておらず一同驚いた。だが、そこから第3弾までこぎつけたのは大したものである。

コラボ商品の売り上げも上々で、収益の一部である660万円が志津川高校に寄付された。話題性も然ることながら、地元の人々が喜んでくれたり、生徒たちとのコミュニケーションを深めてくれたりしたのが何よりの成果だと根本さんは顔をほころばせる。

「生徒たちには地域とのつながりを持ってもらいたいんです」

なぜなら根本さん自身も高校生の時に街の人たちと交流した経験、そして東日本大震災後の「福興市」で目にした地元の人たちの奮闘が、今の自分を形作っているからだ。

高校時代に味わった「地域の人たちの温情」

根本さんは1970年7月、この志津川で生まれた。母校はもちろん志津川高校である。裕福な家庭ではなかったからと、高校時代はとにかくアルバイトに精を出した。水揚げされた銀鮭の箱詰め、建築現場での作業、ホテルや旅館でのスタッフ業務など、街の基幹産業はすべてアルバイトを通じて体験した。

「今思うとハングリーなところがあったんじゃないかな。だんだん地域に知り合いの人ができてきたので、自分から『アルバイトないですか?』と雇ってもらっていましたね。この時期はワカメの収穫作業、この時期は牡蠣をむく仕事と、いろいろと働く場を設けてくれました。地元との関わりを自分で求め、作ろうとしていました」

そこで得たのは、お金だけではない。今でも財産になっているのは、地域の人たちの温情だ。

「特に水産業の人たちにはすごくお世話になりました。この土地の人の温かみとかを、アルバイト経験で植え付けてもらったので、それが後年、こっちに帰ってくる際の後押しになりました。今思えばそんな気がしますね。そういう経験がなければ、いくら住民でも地元の事業者との接点は持てませんから」

高校2年生の終わりまでは、卒業したら地元で就職するつもりだった。しかし、次第に「世の中のことをもっと勉強したい」と考えるようになる。そのきっかけを作ってくれたのが、2人の恩師だ。

「高校時代にお世話になった先生が2人いて。先生というフィルターの先に、人間的にすごく尊敬できるものがありました」

(写真提供:根本さん)

一人は、包容力とアイデア、行動力にあふれた先生で、もう一人は、生徒の特性を理解して、軌道修正してくれる担任の先生だった。後者については、叱って何かをさせるではなく、足りない部分をどうすれば伸ばせるのか一緒に考えてくれる人だった。

「アルバイトは朝もやっていたんですよ。新聞配達や牛乳配達を。ちょっとしんどくなって、学校に遅刻すると、頭ごなしに怒ることはせずに、『お前にとって今、大事なことは何だろうな?』と、気付かせてくれるように諭すのです」

自分もこんな大人になりたい——。そう思った根本さんは高校を卒業後、仙台に出て、東北学院大学の夜間学部に進学。そして、教員免許を取った。

「福興市」の衝撃

大学出てから1年間、志津川高校で非常勤として働いた後、登米で4年、気仙沼で7年、仙台で8年の教員生活を送る。そして2013年4月、再び志津川高校に戻ってくる。きっかけは震災だ。

「元々は戻る気はなく、ぬくぬくと仙台で生活しようと思っていました(笑)。でも、震災があって、地元の方が大勢頑張っているのを聞いたら、行かないと駄目だと考えを改めました。それと仮設住宅に入っていた両親のことも気になったので。異動希望を出すこと2年、ようやく帰ってくることができました」

地元の人たちの頑張り。それを痛烈に感じたのが「福興市」だった。街にはまだ瓦礫が山積みで、多くの住民が避難所生活を余儀なくされていた最中の11年4月、第1回の福興市が立ち上がった。そこから毎月最終日曜日に開かれるようになった。

「そのころ、私は仙台にいたんですけど、第1回の福興市をテレビのニュースで見て、すごい衝撃を受けました。さらに来月もやりますと聞いてびっくりしました」

(写真提供:根本さん)

いてもたってもいられなくなった根本さんは、第2回の福興市に駆けつけた。当時は高校の野球部部長を務めていて、その日は試合があったのだが、事情を話して欠勤させてもらった。福興市で目の当たりにしたのは、地元の人たちのたくましさだった。

「初めのころの福興市って、売るものないんですよ。製造なんてできないからね。どうしていたかというと、全国からいただいたものを売るんですよ。例えば、かまぼこ屋さんが売っていたのは、四国の方から善意で送られてきたかまぼこです。たくましさとか、信頼の積み重ねでできる販売力とか、すごいなと思うことが一杯ありすぎて」

根本さんは、その後も福興市が開催されるたびに手伝うようになった。それだけでは満足できず、仙台駅でチラシも配った。

「役場の方に福興市のチラシをもらって、仙台駅でビラ撒きもやりました。土曜日に配って、日曜日にボランティアで福興市のトイレ掃除をやっている時に、『あれ、昨日仙台でビラをくれた人ですよね?』と言われたこともありました。あー、来てくれたんだと。あれは感激したなあ」

福興市では多くのことを学んだし、生きるエネルギーに満ち溢れていた地元の人たちに感銘を受けた。これをぜひ高校生や中学生に見せてあげたいと、根本さんは心に誓った。

「こんな生きた教材、学べる場はないですよ」

町の人たちからの学び

根本さんは、その誓いを果たす。志津川高校に赴任すると、すぐさま生徒たちを福興市に連れて行き、手伝いに参加させてもらう。最終的には店を出して、たこ焼きをはじめ、さまざまな商品を販売した。

「設営から出店までいろいろなことをやりました。本当に、福興市は格好の学びの場。地元の人たちは、頑張った子はしっかり認めてくれるし、お客さんからの反応も勉強になる。学校の授業では学べないことを勉強できたと言っている生徒もいました」

22年5月、第100回を迎えたタイミングで福興市は幕を閉じた。しかし今では、商業部の生徒は他にもさまざまなイベントごとに参加して、町との関わりをどんどん持てるようになっている。そして、ペヤングとのコラボ商品によって、そのつながりはさらに深くなる。

(写真提供:根本さん)

過去の「地域交流」が地元に戻りたいと思う動機づけに

“ペヤング効果”で地元メディアなどから取材攻勢にあったり、テレビCMに出演したりした商業部の生徒たちは、一躍地元の有名人になった。通学時などに町の人々から声をかけられる機会が増えたそうだ。それは生徒たちの自信にもつながった。

「どちらかというと商業部の生徒って、外に弾けている子がいなくて。福興市の販売活動のときも、『いらっしゃいませ!』の練習を何度もしたのに、なかなか声が出なかった。でも、最近は町で声をかけてもらうことが多くなったものですから、自信がついたみたいです。『家の中での表情が別人になった』と親御さんたちも話していました」

何よりも地元の人たちとつながれたことが大きい。もし卒業して町を離れても、いつかまた戻ってこようと思ったとき、きっとお世話になった人の顔が浮かぶはずだ。根本さんがそうであったように……。

(写真提供:根本さん)

志津川高校は23年3月末をもって、98年の歴史に区切りをつける。4月1日からは「南三陸高校」として生まれ変わるのだ。それに伴い、生徒も全国から受け入れるようになった。地元の子たちは、外からやってくる生徒からきっと多くの刺激をもらえるはずだと、根本さんは期待する。

そしてまた、町外出身の生徒にも、地域の人たちとできるだけつながりを持って、いずれは南三陸を故郷のように感じてもらえれば嬉しい。根本さんはその日を心待ちにしている。

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