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知床の世界自然遺産を守る人たちが考える、ヒグマ対策の大切さとむずかしさ【知床自然センター】

知床五湖や羅臼岳を始めとする知床連山、オホーツク海に面するプユニ岬や大小さまざまな滝……2015年に世界自然遺産に登録された知床国立公園の入り口にあるのが「知床自然センター」だ。ビジターセンターとして、知床の自然の雄大なすばらしさを広めつつ、利用するためのルールやマナーを伝える役割を担っている。運営しているのは「公益財団法人 知床財団」。そこで事業部長として働く山本幸さんに話を聞いた。知床がなぜ人々をここまで魅了するのか、この自然を守るためにどのような活動が必要で、どんな課題があるのかが見えてきた。

自然を楽しむために、守るべき制度をつくる

ヒグマやエゾシカのイラストが箔押しされた手帳。描かれている動物たちが緻密で印象的で、たくさんの人が手に取っている。「知床自然センター」のグッズ売り場には、ほかにも、エコバッグやボトル、Tシャツや軍手などが並んでいる。「知床あんない手帖」という小さな冊子も。知床の生態系を紹介しつつ、ヒグマに会わないために必要なことや、会った時の対処法などを紹介したものだ。

ふるさと納税の返礼品としても人気の商品だ。

これらは、「公益財団法人 知床財団」がオリジナルで作っているもの。財団が担っている仕事は、西のウトロ側にある、ここ「知床自然センター」だけでなく、東側の「羅臼ビジターセンター」や「知床五湖フィールドハウス」などの施設の運営のほか、野生生物の保護や管理、その研究、さらに環境教育や普及啓発など、実に幅広い業務をこなしている。

「たくさんの人に知床の自然を知ってもらうこと、守ってもらうことを大切にしています。ここは、ヒグマやエゾシカ、シマフクロウなどたくさんの動物たちがすぐ近くで暮らしている土地ですから」と、山本さんが話すまわりで、リンリンという音がそこかしこで聞こえる。熊鈴をつけた人たちが、これからトレッキングに向かうのだ。

世界自然遺産となれば国内外からたくさんの人が訪れるだけに、動物との遭遇の確率も高くなるだろう。知床財団では、野生動物を守りながらも、国立公園を楽しんでもらうための施策も行っている。館内にはエリアごとにどこをどうまわればいいのかを示した手作りのパネルがそこかしこに貼ってあるし、一角には長靴やトレッキングポール、双眼鏡などのレンタルコーナーもある。

野生動物との距離を保ちつつ、安全に自然を楽しむためには、エリアごとに制度を整える必要がある。それも、財団で担っている仕事のひとつ。たとえば「知床五湖」や「カムイワッカ湯の滝」の場合は、人数制限を設け、レクチャーを受ける必要がある場合や、期間によってはガイドを帯同するというルールがある。

「これらは、環境省や林野庁、町の環境課や観光課、さらには地域の方々と一緒に考え、実際に私たちが業務を請け負っているというものです。例えば、知床五湖は、地上遊歩道に入れる人数を制限し、事前にレクチャーを受けていただくようにしています。さらにヒグマが活発に動きまわる時期だけはガイドさんと一緒に行くことを必須に。カムイワッカは野生動物との遭遇だけでなく、落石などの危険もあるんです。ただ、危険だからと閉鎖するのではなく、事前予約制にし、きちんとリスクを伝えて理解してもらう、装備をしっかりそろえて現地に行ってもらうという制度にしました」

知床五湖は人気のスポットだけあり、一時期はたくさんの人が訪れて混雑し、植生侵食の懸念があった。そのため、現在、地上遊歩道では時期によっては一回の立ち入り人数を制限するという方法をとっている。

カムイワッカは3つの滝登りが楽しめる場所だが、難関な場所も多い。こちらもレクチャーは必須で、転落や滑落、落石のリスクだけでなく、携帯の電波が届きにくく情報を得られないこと、もし怪我をしてしまったら救助まで40分かかることも伝える。そのうえで利用するのなら、ヘルメットの着用は必須に。

そして、どちらの場所でも野生動物との遭遇に備えて楽しむ必要がある。登山と同じように、あくまでも自己責任で楽しむべき場所なのだ。

「安全に楽しんでもらうために、守るべきルールなんです。この自然を楽しみつつ、野生動物と共存していることを忘れずに。危険なことを理解し、ヒグマなどの野生動物を正しく恐れるようにしてほしい。そのうえで楽しむことが大切だと考えています」

ヒグマを正しく恐れるために必要なこと

センターの中には、ヒグマに近づいてはいけないこと、車の運転中にヒグマを見かけても止まってはいけないことなど、たくさんの注意点が書かれたパネルが掲げられている。当たり前のようなことかもしれないが、どうしても守らない人が出てきてしまうからだ。

「写真を撮るためにスマホを構えると、知らず知らずに近づいてしまうこともあります。ヒグマ見たさに車を停めて降りてしまう人もいる。リスクを知ってもらえたら、そうはならないはずなんです」と、山本さんはちょっと悲しそうな表情で続ける。

「今のところ、ヒグマとの事故はゼロです。でも、もしも何か起こってしまったとしたら……その先のことを想像してほしい。ここが危険な場所だとなったら、楽しむことはできません。規制されることが増えると、国立公園として利用できる幅もどんどん狭くなってしまうんです」

センター内では、ヒグマに対する知識を得るためのレクチャーも行っている。

特にここ数年、狩猟をするハンターたちが高齢となり、山へ入る人たちが減っている。ヒグマにとって、人間が怖いものだと知る機会が少なくなっているのだ。結果、人間の近くまで来てしまうこともあり、その対策も財団が担っている。

「国や町と連携し、知床ヒグマ管理計画に基づいて対策を行っています。エリアごとにゾーニング(地区区分)して、ヒグマが出た場合の対応をするんです。例えば、市街地は人間が優先というゾーンなので、そこにヒグマが出た場合には基本的には捕獲が前提。このセンターのまわりのように野生動物がいるべき場所では、人側への働きかけやヒグマに対する追い払いを行ったりします」

「追い払い」とは、大きな音を出したり、車のクラクションを鳴らしたりして山の奥へと誘導すること。ヒグマが出たという知らせが入ったら、財団の職員たちがすぐに現場へ行って追い払いを行うのだ。

ただ、この行為に対して、心無い声が上がることもあるのだという。ヒグマの写真を撮るべくカメラを構えていたのに、追い払いをされてしまった人たちの反応がそれだ。

「なんで追い払うんだ、財団は帰れ、と言われることもあるんです。でも、私たちはやらなければなりません。そもそも簡単に近づけるような、触れるような動物ではないですし、相手の機嫌が悪ければ一撃で命に関わる事態になってしまう。皆さんの安全を守るためには必要なことなんです」

ちなみに、センターにはゴミ箱がない。施設内なら置いても大丈夫だが、あえて設置しないようにしているのだという。

「ゴミの管理も含めて、国立公園の利用のひとつだと理解してほしいんです。何気なく落とした飴ひとつが、野生動物の捕獲にたどり着いてしまうことを知ってほしい」

リスクを知ること、備えることの大切さ。そして私たちを守ってくれている彼らの気持ちを多くの人に知ってもらえたら。「帰れ」などとは言えないはずなのだ。知ることの大切さが痛いほどに伝わってくる。

山本さんは「過度に恐れる必要はない。正しく恐れてほしい」と繰り返し、大切なのは生態を知ることだとも話す。そのために行っている施策のひとつに「クマ授業」というものがある。近隣の小学校へ出向き、ヒグマの生態から、出会わないためにどうするか、出会ってしまった時にどう対応するかを伝えるものだ。

「20年以上、毎年続けている活動です。例えば、ヒグマが走ると車くらい早いこと、川をスイスイ泳いで渡れること、秋には山葡萄を食べるし、鮭のシーズンには川の近くにいるなどの生態を知ると、対応できるようになりますよね。川向こうにいるからと安心してはいけない、山葡萄を見つけたら近くにヒグマが隠れているかもしれない、と想像するとか」

実際に、子どもたちがしっかりと対応した事例もある。ウトロ市内では住宅街に電気柵を設けているものの、どうしても柵内にヒグマが入り込んでしまい、下校の際に遭遇した生徒たちがいたという。

「大騒ぎせず、冷静に対処できたそうなんです。上級生が下級生をまとめて学校まで戻って報告した、と。あとは、羅臼で授業を受けた子が大人になり、環境省のアクティブレンジャーとして戻ってきてくれました。そういう間接的な影響もあるのかな、と。田舎は嫌だと言っていた子たちが、自然の『濃さ』やヒグマがいることの価値に気がついてくれて、就職につながっているんだなと感じました」

写真を撮ろうと近づく大人よりも賢く、大切にすべきことをわかっている子どもたちがここで育っているのだ。

ヒグマが存在する自然の強さ

山本さんは、知床の自然について話すとき『濃い』と表現し、何度も口にする。彼女がその濃さを知ったのは、大学生のときだった。もともと幼いころから生き物が好きで、大学進学では畜産学科に進んだ。そこで入ったサークルが知床へ足を運ぶきっかけになったという。

「『自然保護研究会』というサークルで、かたい名前ではあるんですが(笑)。毎年、そのサークルから、国立公園へバイトを派遣していたんです。今はもうない制度ですが、環境省の管轄で、夏の間だけ全国の国立公園に住み込みで働くというもの。私はたまたま知床行きに手を挙げて、サブレンジャーとして観察会で生き物の解説をしたり、トレッキングコースの案内をしたりしました。そこで知床の自然の濃さと近さを知って以来、毎年通うようになったんです」

霧があっても美しい知床五湖。

山本さんが感じた自然の濃さや近さとはなんですか?と聞くと、目をキラキラさせながら嬉しそうに続けてくれた。

「暮らしている場所の本当にすぐ近くに、ものすごい自然がある。一歩入ると普通に野生動物がいる、という自然です。リスやタヌキがいて、ヒグマの痕跡を見つけることもある。普通に暮らしていて、そういう野生の生き物に会うことってほとんどないですよね。距離が近いということに驚きました。濃さについては、やっぱり生物の頂点であるヒグマがいて、それを支えるだけの自然があるということだと思います」

山本さんによると、知床半島には最低でも400〜500頭のヒグマが生息していることがわかっているという。日本地図を思い浮かべてほしい。北海道は大きく感じるが、そのなかでの知床半島のサイズを考えるとこのヒグマの頭数に驚かされるだろう。ちなみに近隣の町であるウトロ町と羅臼町に住む人間の数は、合わせて5000人ほど。その10分の1の数のヒグマがいるというわけだ。

「その数のヒグマを支えるだけの食糧があるって想像すると、すごいことだな、と。あの巨体が400〜500頭もいて、それを賄える自然だということ。そしてそれを維持し続けられていることもすばらしいなと感じます。生態系としても、ヒグマが鮭をとって、山で食べ残すということは、海の栄養を山に還元することにつながりますし」

あとはやっぱり、と、さらに続ける。

「人間の弱さを実感したことも大きいです。山に入って、100メートル先で穏やかに何かを食べているヒグマの姿を見ていると、純粋にすごいな、と思うんですよ。それにここでは自分の身を守るために、五感を働かせていないといけないし、ピリッとした緊張感があって生きている実感が強くなる。ここに住んでいると、知床の自然そのものの力強さや威厳を感じるんです」

ヒグマが生き続けられるだけの自然が、すぐそばにある。広大で壮大な土地ではないけれど、でも、だからこそ正しく恐れて共存する術を考えていかなければならないのだ。山本さんたちが守り、大切にしていることを、同じように感じている利用者は確実に増えている。話を聞いている最中に、何度も熊鈴がまわりで鳴っていたのがその証なのだと思わされた。

財団の存在意義を知ってもらうために

財団を運営するなかで山本さんが大切にしているのは、「自分たちがいる意味」だと話す。

「地域の方々に『いてほしい』と思ってもらえることが重要です。理解を得て、財団は必要だと思ってもらえるように。事業として国や町と一緒にやることも大切ですし、ここを拠点にしてやれることはどんどんやっていきたい。そのためには、やはり資金は必要です」

業務には、国や町の補助金だけではまかなえないものもある。そこで会員制度を取り入れ、財団を応援する法人や個人が会員となって支払った会員費が、資金に充てられるという仕組みにしている。

センターの壁には、法人の会員となった会社のロゴマークがずらりと並んでいる。
会員向けの雑誌「SEEDS」を発行し、野生動物の生態解明やアクティビティレポート、活動の報告などをオールカラーで掲載している。

運営する資金を集める一方で、職員の給与面も大切なことだと山本さんは続ける。

「世の中の憧れの仕事として存在したいし、そのためにはお金の面も大切なことだと思うんです」

もちろん、お金がすべてではないことは、山本さんも重々承知のうえでの話だ。ちなみに、海外の国立公園ではさまざまな資金源があり、そこで働くレンジャーたちには対価として見合った給与が支払われている。日本では、まだまだ必要な現場にお金がまわっていないと山本さんは実感しているのだ。

「エシカルやサステナブルと言って環境を大切に思う気持ちも大事です。一方で、環境を守る現場で働く人を育成していける社会にできたらと願っています。社会全体が、環境保全という仕事に価値を見出してくれたらいいな、と。私たちも、行政主体に頼らずに事業化できることをしっかりやっていきたいですし、資金ができたら、知床を楽しむための施策や制度をもっともっと手厚くしたい。まだまだ課題はたくさんあるんです」

そもそも仕事とは、対価が支払われて当たり前のこと。どんな仕事であっても等しく、見合った対価でなければならない。ここでの仕事は、決して慈善事業ではないのだ。

山本さんの右腕には「SHIRETOKO Nature Foundation」と書かれたワッペンが貼られている。ちょっと色がくすんで年季が入っていて、とてもかっこいい。それを伝えると照れくさそうに笑いながら「たくさんグッズがありますけど、これだけは非売品なんですよ」と話してくれた。

このワッペンをつけ続けていることは、山本さんにとって大きな誇りなのだろう。そのためには、知ること、正しく恐れること、守っていくことを共有する人が一人でも増えることが必要だ。これからも、彼女の誇りが損なわれず、ずっと続いていく社会であるように。彼女が大切に想う知床の自然がずっとここにあり続けるために。

知床財団

Photo:相馬ミナ

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