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断面がストライプになる合板開発「絶対に失敗すると思っていた」【滝澤ベニヤ】

市域の約9割が山岳・森林地帯である北海道芦別市。滝澤ベニヤは、そんな緑豊かな地で約90年に渡って国産広葉樹の合板・単板を製造し続けている木材メーカーだ。木材業界では有名な老舗企業だが、世界に広くその名を知られるようになったきっかけは、それまで市場になかった画期的なデザイン合板「ペーパーウッド」を生み出したこと。この開発に携わった3代目社長・滝澤貴弘さんは、「ペーパーウッドは売れることを狙ったものではなく、会社にとって必要なものだった」というが、商品化に至るまでに一体どんなストーリーがあったのか。当時、社長として開発を見守っていた現会長・滝澤量久さんと開発者・貴弘さん親子にお話を伺った。

合板にデザイン性がプラスされた「ペーパーウッド」

「合板」とは、材料となる丸太を大根のかつら剥きのように薄く剥いたもの(単板:ベニヤ)を乾燥させ、木の繊維方向が交互になるよう積み重ねて接着剤で貼り合わせた板材のこと。無垢材に比べて木の伸び縮みが少なく強度があり、幅広の板を作ることが可能で加工しやすいため、建築建材としてよく用いられている。

そして「ペーパーウッド」とは、薄く加工したシナ材の単板と色のついた再生紙を交互に貼り合わせた、木口の美しさが特徴の積層合板のこと。どこでカットしても断面にストライプ模様が現れ、色の組み合わせによりその表情を変えるデザイン性の高い合板だ。

画像提供/PLYWOOD laboratory

合板は建築の下地材として使われることが多いため、見た目の美しさが追求されることはあまりなかった。そんな中で開発されたペーパーウッドは、合板の概念を変え、業界の話題をさらった。

2010年、東京の建築建材展で発表するや否や脚光を浴び、同年「GOOD DESIGN AWARD 2010(グッドデザイン賞)」を受賞。2012年には世界最大級のデザインコンテスト「RED DOT DESIGN AWARD 2012(レッドドットデザイン賞)」も受賞し、滝澤ベニヤの名は一躍業界内外に轟いたのだ。

このペーパーウッドの開発に携わり、ここに至るまで大きく育てたのが3代目社長である滝澤貴弘さんである。

会社の危機に導かれた新製品の開発

貴弘さんが滝澤ベニヤに入社したのは26歳の頃。先代である父・量久さんから「兄弟どちらかが跡を継いでほしい」と要望があったことがきっかけだ。

「兄はまったく継ぐ気がなかったんです。私は大学入学を機に地元を離れ、卒業後も東京の旅行会社で働いていたんですが、通勤の満員電車や時間に追われる生活に少し疲れていて。芦別で暮らすのもいいか、という気持ちで家業を継ぐことに決めました」

幼い頃から父の姿を見てきたとはいえ、木材の加工に関してはまったくの素人だった貴弘さんは、まずは取引先の単板メーカーで木材の勉強をさせてもらい、入社後は自社工場で研修を重ねた。

「工場勤務を3年ほど続けた後、会社の業績が下降気味になってきたことをきっかけに営業の仕事に移りました。といっても当時は問屋が勝手に売ってくれていた時代で、社内に営業という部署はなかった。1人でとりあえず取引先を回ってみるところから始めました」

営業に出てみて気づいたことは、会社がつくっている製品自体はよく知られているが、「滝澤ベニヤ」という会社名を知っている人はほとんどいないということだった。

「というのも、間に入っている問屋がうちの商品の名前を変え、自社製品として販売していたんです。これはなかなか衝撃でしたね」

また、競合他社も似たような製品を作っており製品の明確な差を打ち出せていないことにも気づいた。工場勤務の頃には感じなかった危機に直面し、このままではだめだと痛感したという貴弘さん。

「他社とは違う製品を開発し、自分たちの会社名をもっと出していかなくては」そこから、新製品開発に燃える日々が始まった。

ヒントを求めて訪れた展示会で運命の出会い

まずは既存の合板のブラッシュアップに取り組んだ貴弘さんだったが、使用する材を変えたり、環境に配慮した合板を開発しても、思ったような評価は得られなかった。当時、国内の多くの合板メーカーは海外から単板を安く仕入れ、効率的に製造して安価な合板を売り出していた。そんな中で新製品を提案しても、品質の良さには注目してもらえず、言われるのは価格のことばかり。

「視点を変えて、インパクトのあるまったく新しい製品を生み出さなければ状況は変えられないと悟りました。何かヒントになればと思って東京で開催されていたインテリアの展示会に出向いたんです」

そこで、『合板研究所』というブースを見つける。それは、デザインスタジオ「ドリルデザイン」と、木工家具の製作を手掛ける「フルスイング」による合板開発プロジェクトだった。

画像提供/合板研究所

「市販の板に布やアクリル、色紙などを挟んでつくられたプロダクトを見て、合板は木でつくるものという固定概念を持っていた私は衝撃を受けました。そして、これを商品化したいとその場で声を掛けたんです。彼らは彼らで、品質を保ちつつ量産できる工場を探していた。すぐに意気投合し、翌週には工場に来てくれました」

今や日本でも数少なくなった、丸太のかつら剥きをする機械・ロータリーレースの工程を見られる希少な工場。コンマ数ミリの精度で単板を生み出す技術や、単板1枚1枚を職人の目ですベてチェックし、貼り合わせの作業まで丁寧に仕上げられていく工程。滝澤ベニヤの中枢を見てもらえたことで、商品化の話はとんとん拍子で進んでいったという。まさに、運命の出会いだった。

そんな過程をすぐそばで見ていた当時の社長であり父である量久さんの目に、開発に奔走する貴弘さんの姿はどんな風に映っていたのだろうか。尋ねてみると、「アイデアを聞いた時は、絶対失敗すると思いましたね」と量久さんは笑う。

板のわずかな厚みの違いが最終的に大きな狂いに繋がってしまう繊細な合板に、収縮率の違う「紙」を使用するのは実際かなり困難なことだった。接着剤の水分を吸って膨らんでしまう紙の、そのわずかな膨らみも計算に入れないと狙った厚みにはならないからだ。

難しいだろうとは思ったが、貴弘さんの挑戦を止める気はなかった。

「価格競争が過熱する中でも、うちの会社は芦別や国産の木材にこだわり、品質を落とさずにグレードの高いものを作り続けてきた。会社の職人たちへの信頼と、技術力には絶対の自信があったので、好きなようにやってみなさいという想いでした」

そして貴弘さんも、会社の技術力に対しては同じ想いだった。

「売れるものをつくりたいというよりも、滝澤ベニヤという会社のイメージを形づくるためにはこの製品が必要だと考えていました。もし売れなくても、これを打ち出せれば会社の高い技術力、品質の良さは確実に世に伝わる。そうなれば、ほかの合板も営業しやすくなる。この製品が会社の名刺代わりになると確信していたんです」

そうしてペーパーウッドは商品化に向けて一気に動き出したのだ。

取引先を大きく変えたパリへの出展

想定していたとおり、狙った厚みに均一に揃える工程では何度も失敗を繰り返したが、積み重ねてきた経験値ですぐにリカバリーされ、商品化は思いのほかスムーズに進んだ。大変なのは、その後だった。

画像提供/合板研究所

最初の数年間は東京など国内の展示会に出展したり、さまざまな賞も受賞して注目を浴びたが、いざ問屋や工務店などに営業をかけてもなかなか売れず、値切られることが続いた。

「安く多く売りたいわけではなく、製品に価値を見出してくれる人に使ってほしい。そこで営業先を変え、デザイナーや設計事務所に提案に出向くようにしたんです。使ってくださいと頭を下げるのではなく、このデザインを使いたいと思ってもらうことを目指しました」

そうすると、ペーパーウッドのデザイン性や環境に配慮した資材であることに魅力を感じたデザイナーや設計士たちに採用される機会が増え、個人宅に限らず公共施設、商業施設などでも使用されるようになっていった。認知が広がったことで海外からの問い合わせや注文も増えた。が、そこでまた問題が発生する。

「渋谷ヒカリエ」画像提供/PLYWOOD laboratory

「ペーパーウッドを板のまま海外輸送するには運送費がかかりすぎるんです。また、赤道を超えてコンテナで運ぶと中が90度近い高温になってしまい、品質が保証できない。そのため、ヨーロッパなどへの輸出は断念せざるを得ませんでした」

板での輸送が難しいなら小物を作って輸出すればいいと考えた貴弘さんは2015年、ペーパーウッドの生みの親である「ドリルデザイン」とともにペーパーウッドを用いたプロダクトライン「PLYWOOD laboratory」を立ち上げた。美しい小口の特性を生かしたスツールやペーパーウエイトなどの小物は2016年にパリの展示会「メゾン・エ・オブジェ」に出展され、それを機にニューヨーク近代美術館(MoMA)での販売も決まった。

「ペーパーウッドスツール」画像提供/PLYWOOD laboratory

単板・合板メーカーが新商品をつくったといっても、日本国内の取引ではすぐに掛け率を叩かれてしまうと危惧していた貴弘さんは、海外に勝負をかけたのだ。

「海外での実績をまずつくったことで国内のメディアや日経MJなどにも取り上げられ、インテリア業界、デザイン業界に一気に認知が広がりました。ペーパーウッドは普通の合板に比べると10倍近い価格設定ですが、商品価値にしっかりとこだわったことで価格を下げる必要がなくなり、収益も安定。ペーパーウッドの開発から7年ぐらい経ち、ようやく軌道に乗ったことを実感できましたね」

道産材にこだわることで森を守っていく

ペーパーウッドを用いたプロダクトを手に微笑む貴弘さんと、丸太の仕入れ等を担当している山田さんの表情はどこか誇らしげだ。世界中の展示会で賞賛される商品を生み出していることは、従業員の意識をも変えた。だが、「これは看板商品ではあっても、メイン商品ではない」と貴弘さんは語る。

「これをメインにしてしまうと、手間がかかりすぎてほかの商品をつくれなくなるんです。もともとずっとつくってきた合板の顧客を疎かにすることはできない。どの製品も熟練した職人技術が必要なものなので、人を増やせば解決するという問題でもないんです。これからも事業は拡大せず、今まで通りの規模でやっていくつもりです」

事業拡大の代わりに会社が目指していくのは、できるだけ道産材や間伐材を使用し、地域の森や資源を守っていくこと。そして人の手による目の行き届く製造にこだわり、長い年月を掛けて成長してきた木材に恥ずかしくないような製品をつくり続けることだ。

「この数十年、合板に用いる接着剤なども環境や人体に無害で安全なものを使い続けてきました。人の暮らしに大きく関わる木材を扱う会社として、そのこだわりはこれからも変わらないですね」

世界に滝澤ベニヤの名を広めるきっかけとなった製品、ペーパーウッドの商品化を成功させた原動力は、父たちが磨き上げてきた技術を世に知ってほしいという強い想いだ。そして現社長には、木工業者としての誇りや環境理念が、初代からしっかりと受け継がれている。

3代目として展望を語る我が子の言葉を静かに聞いていた会長が「本当によくがんばっていると思う。取引先に愛されているところがいいんだよ」とこっそり教えてくれた。滝澤ベニヤという会社の誠実さ、真面目さ、温かさを象徴するような会話のやりとりが印象に残った。

Photo:辻茂樹

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