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お茶もシングルオリジンの時代へ「作り手の思いに関心広がっている」【ビバ沢渡】

高知の清流といえば、全国的に有名なのは四万十川。けれど、県内在住者や四国にあかるい人からすれば、仁淀川(によどがわ)も同等の存在だ。“仁淀ブルー”“奇跡の清流”とも呼ばれる水質は、国土交通省が発表する「水質が最も良好な河川」に過去10年で度々選ばれているほど。そんな清流の上流にある山間部で、戦国時代から茶栽培を行ってきたのが仁淀川町沢渡(さわたり)だ。かつては県内有数の生産量を誇るお茶どころであったが、1990年代以降、生産量は減少の一途へ。そこで茶畑の風景を残したい、との思いで祖父の畑を引き継いだのが「ビバ沢渡」代表の岸本憲明さんだ。農業経験ゼロからスタートし、今では茶栽培から加工品製造、販売、カフェの運営までを一手に担う。高知市内から車で1時間半という立地や人口減少による人手不足が進むなか、栽培から加工、販売までをどのように軌道にのせたのか? 岸本さんに話を聞いた。

知る人ぞ知るお茶どころ

仁淀川町沢渡は、石鎚山に源を発し124kmに渡って土佐湾に流れ着く、仁淀川沿いに発展した渓谷の集落。急峻な斜面にへばりつくように茶畑が広がっていて、谷底には青々と輝く仁淀川が流れる。一番下の茶畑から上の茶畑まで、標高差はおよそ100m。茶葉はたくさんの日光、霧や雨、そして昼夜の寒暖差を受けて育つことで、香り高く、優しい味でありながら、輪郭がはっきりした「特徴的な茶の味に仕上がる」のだと岸本さんは言う。また、仁淀川上流であるここでは、“そのまま飲める”レベルの沢の水を、生活用水や農業用水に活用している。この豊かな水も美味しいお茶づくりには欠かせない。

戦国時代には行われていたという記録も残る、沢渡の茶栽培。長らく各家庭で栽培されていたが、1960年頃からは品種ものの苗を植え、段々畑ができ、1980年代には一大生産地として生産量のピークを迎えた。岸本さんの母親は、代々ここで茶作りを行ってきた茶農家の家系だ。

「茶農家からお茶を買い付けブレンドして販売する『お茶商さん』などのお茶業界や、お茶好きの間に根強いファンが多かったようです。いつくかのお茶商さんと毎年安定的な取引があったので、農家さんは茶栽培だけで生計を立てることができました」

収穫した茶葉を町の製茶場で加工し、農家は町の製茶組合を通じて卸売市場に出荷する。ゆえに、一般消費者には馴染みがないが、業界やマニアの間では有名な“知る人ぞ知る”高級茶だったのだ。

集落でもお茶は毎日飲むもの。毎年5月上旬、一番茶の収穫が終わってすぐ、各家庭では1番茶を釜で炒り、釜炒り茶を作る。一般的には新茶、それも1番茶は香りをそのまま生かせるため蒸して煎茶にするものだが、それを釜炒りにするとは、ある意味贅沢なことだ。

「高知の家庭では、釜炒り茶を番茶と呼んで日常的に飲みます。これを作っている時は、香りが集落中に漂って、『誰かが作りおるなー』とわかるんです。それを大きなやかんで煮出したものを、茶の間にどーんと置いてあるのが、ここの当たり前の風景です」

名無しのお茶をブランディング

90年代以降、生活や嗜好品の多様化などでお茶の市場価格が下がるにつれ、沢渡の生産量も年々減少する。ピーク時には50以上の世帯が所属していた製茶組合だが、今では実際に栽培を行うのは10世帯ほど。そんな状況を目の当たりにし、当時高知市内で大工の仕事をしていた岸本さんは、仁淀川町に移住し、祖父の茶畑を引き継ぐことを決意。

4年間地元企業に勤めながら、祖父に栽培のノウハウを教えてもらい、2010年に専業農家として事業をスタート。だが、これまでのような組合を通した出荷はしないと決めた。「従来のやり方では生業として成り立たないという現状を知った上で飛び込んだので、直接販売の道を選ぶしかありませんでした」と、当時の思いを語る。

栽培と並行して、商品開発や販路開拓、PRにも手当たりしだで取り組んだ。そこで大きかったのは、自社製品を「沢渡茶」と名付けブランディングしたこと。というのも、それまで“仁淀第二工場”という流通上の呼称はあっても、消費者向けの名前は存在しなかったのだ。

「これまでのように市場に値段をつけられるのではなく、こちらの提示金額でお客さんが納得してくれるような。また、こちらが売り込みに行くのではなく、お客さんから買いに来てくれるような。そういうブランディングをする必要性を感じました」

お茶に親しみのない層に向け、茶葉を使ったスイーツやお茶漬けなど加工品を作ったり、ロゴやデザインはシンプルでナチュラルなものにこだわった。オンラインサイト、空港、道の駅、小売店など、約10年かけて販路も少しずつ広げてきた。

2018年には高知市にある高知 蔦屋書店に「CHA CAFE ASUNARO」をオープン(2022年9月閉店)。2020年には茶畑の傍らにカフェ「茶農家の店あすなろ」を始め、お茶どころ捕手の集落を知ってもらうきっかけになっている。

「近年ではコーヒーと同じくお茶も“シングルオリジン“を好む人が増えています。ただ美味しいお茶が飲めれば良いのではなく、どういう人がどんな思いで作っているのか。そこに、多くの人が興味をもたれている。市内から1時間半かけてわざわざきてくれる人が増えていて、その流れを実感しています」

守りたいのは地域の風景

岸本さん自身は高知市内で生まれ育ったが、幼少時から茶摘みやお祭りの時期に合わせて里帰りすることも多かった。社会人になってからも、休日には茶畑の手伝いのためよく帰省していたという。

「畑仕事をする人の声や機械の音、茶摘み前の座談会や、製茶作業後の直会などと、この集落ではお茶を中心に暮らしがまわってきました。それが20年前頃から年々、耕作放棄地が増え、そうした文化や風景が少なくなっていくのを寂しく感じていて。僕らの世代がやらないと次の世代にこの茶畑の景色が残らないんじゃないかという危機感と、自分が守ろうという使命感がこみ上げてきました」

茶農家の道に飛び込んだ岸本さん。当時は「今からお茶を作っても……」と、集落自体に暗い雰囲気が漂っていた頃。専業農家になることを告げると、岸本さんのことを思い反対する地域の人も多かったそう。また事業開始後も、集落の人全員に理解してもらうのに5年ほどかかったと言う。

「お祭りの直会や飲み会などに顔を出しては、地域の人と本当に色々な話をしてきました。高知はお酒の県と言われるように、お酒の場が実際多いんです。新しい事業が、町の歴史や伝統をダメにしてしまうのでは、と不安を抱いている人もいて。未来の事業や町のイメージを、ときには夢を語りながら理解してもらいました。今は、あの時辛抱してよかったと思います」

地形と文化を生かしたアクティビティを

沢渡茶生産組合が管理する畑はのべ約20ha。そのうちの3haをビバ沢渡が占める。これは岸本家の畑としては、事業開始時の3,5倍に当たる面積。畑は、耕作放棄地を引き継いでは、年々拡大している。「ノリがおってくれたおかげで、茶畑がやぶにならずに済んだ」などと、集落の人から感謝を伝えられることも増えた。

もちろん、茶の栽培やカフェの運営に携わってくれるのは地域の方々。岸本さんも、毎年冬の伝統行事「秋葉祭り」には、社員全員で参加している。かつての風景や交流が蘇りつつあるが、それでも、地域の衰退は進んでいると岸本さんは吐露する。

「高齢化や人口の自然減で、衰退のスピードが予想以上に早くて。僕の夢は、沢渡全域の畑でお茶を作り続けることですが、それ以上に耕作放棄地が増えたり、人手不足が深刻化しています」

地域に興味をもち、ファンになってくれる若年層を増やすには、茶農家としての打ち出し方だけでは弱い。そこで岸本さんが計画中なのが、地域資源をかしたアクティビティ事業だ。茶畑の斜面を下りながら、仁淀川まで降りていく。そこでは、ジップラインや吊り橋などの渓谷の地形を生かしたアクティビティを楽しめる。体験後にはお茶を提供。茶農家ならではのアクティビティ事業を展開したい、と意気込む。

「間口を広げることで、僕らのことを面白がってくれて、将来的に一緒に働いてくれる若い世代の人たちに出会えたらと思っています」

お茶どころの地形と文化を生かした体験が、町をさらに賑わせる日も遠くなさそうだ。

写真:石川拓也

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