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約半数が連泊して「ゆるめる」“分かち合う”がある湯治宿【サリーガーデンの宿 湯治 柳屋】

湯けむりが立ち上るノスタルジックな温泉街。日本一の源泉数を誇る“おんせん県”こと大分県別府市、千年の歴史を紡ぐ鉄輪(かんなわ)という地区の一画に「サリーガーデンの宿 湯治 柳屋」はある。温泉好き、旅好きのみならず、美しいものを求める人、暮らしを丁寧に見つめて生きたいと考える人。ここは、さまざまな人びとが静かな熱を持って集う場所だ。経営するのは、音楽教師からケーキ店のオーナー、そして湯治宿の女将と転身を遂げた橋本栄子さん。職種が変わってもぶれない軸を持ち、新しい湯治文化の担い手として注目を集める彼女に話を聞いた。「小さなことを繰り返してきただけ」と語る橋本さんのこれまでとこれから。そこには、すべての仕事人に通じる豊かなアイデアとヒントが詰まっていた。

3泊すれば、心が軽くなる。

宿の隅々まで行き届いた清潔感に、思わず深呼吸をしたくなる。ひと昔前の湯治宿とは随分とイメージが変わりましたね、と尋ねると、橋本さんは「最初の頃は『湯治なのに清潔でびっくりした』とあちこちで言われていました」と小さな笑い声を上げる。それだけ、湯治という言葉にネガティブなイメージがあったということだろう。

「私たちが宿を始めた頃のことだから、10年くらい前のことです。その頃から、一気にモダン湯治や現代湯治という言葉が知られるようになって、湯治そのものが見直されて。メディアでも取り上げていただけるようになり、ありがたく思っています」

古来より、湯治を3週間ほど続けると身体の悪いものが入れ替わり、体調が良くなるというのは有名な話だが……。「でも、そんなに休めないじゃない?」と橋本さんは首を傾げる。地元の医師に問うてみると、「それなら3泊すると良い」と答えが返ってきたそうだ。

「3泊したら、心が随分と軽くなるんだよって教えていただいて。3日間の中でできることを想定すると、最近よく言われる “ととのう”みたいな感覚なのかなと思ったんです」

そこで真っ先に浮かんだのが、館内の清潔感を徹底することだった。

「湯治宿では、温泉も、蒸し場も、前に使った人の気配があるのが当たり前です。そういった痕跡はなるべく消すようにして、可能な限りの清潔を心がけています」

忙しい現代人が短期間で“ととのう”ためには、清潔が不可欠であり、大前提。これまでにない湯治宿の原点は、訪れる人に目線を合わせた、細やかなおもてなしの心から生まれたものだったのだ。

もともとは大分県内で音楽教師をしていた橋本さん。その後、ある人との出会いを転機に、シフォンケーキのお店とカフェを営むことになったという。趣味のケーキづくりが高じて生まれた店「サリーガーデン」は今年で15周年を迎えた。

「今はこっち(柳屋)が気になりながらも、もう一度、音楽に戻ろうとしていたりするの。音楽、ケーキ、湯治宿、まったく違うものに見えるでしょう? 私自身もギャップが大きいと思っていたけれど、美しいものってなんだろうと考え続けることが音楽になったり、ケーキになったり、湯治宿になったり……。改めて考えてみると、教師時代に教えてきたことも、ケーキ屋や湯治宿を持つことも、自分の中にある“生きること”を伝える手段であったのだと思います。そういう意味では、今の自分が“生きる”ためには、音楽という存在を必要としているのかもしれませんね」

業種は違っても、根本的に追求したいものはひとつなのかもしれないと、橋本さんはにっこり笑う。

かくして「サリーガーデンの宿 湯治 柳屋」は2014年に改装してスタートを切った。それ以前も同じ場所で湯治宿が営まれていたが、前の女将さんが高齢となり、後継者を探していたことから橋本さんとの縁が始まったそうだ。

「実は、初めて会ったときはお互いにご縁がないと感じたんですね。でも、三年越しぐらいに別の方の紹介で再びお会いしたときには“ここをやらせていただくんだな”と強く感じました」

建物や空間に包み込まれるような、歓迎されているような不思議な感覚を得て、宿の経営へと踏み出したという橋本さん。憧れていた「湯治」という言葉を掲げ、屋号は迷わず「湯治 柳屋」に決まった。

「湯治という言葉に宿る、ぬくもりに惹かれて。場所もお湯も分かち合う湯治に憧れがあってつけた名前でしたが、後から考えたら“分かち合う”はひとつのテーマだったと思います。ここには源泉もあって、周囲のお宿にも引っ張っているんです」

温泉街にとって何より大切な権利を預かるのだから、お客様や周囲の皆様と分かち合うことを怠ったならば、この場所は私の手を離れていってしまうだろうと、橋本さんはまっすぐに言葉を重ねる。“分かち合い”は、湯治宿の過ごし方としても重要なキーワードだと考えているそうだ。

「基本的には、空間、時間の分かち合いです。私たちスタッフとも分かち合っていただきますし、お客様同士も同じ。ベタベタはしないけれど、ちょうどよい距離感で関わり合うのが良いと考えています。例えば、お互いを感じ合うからこそ大きな声ではなく、相手にちょうど届く気持ち良い声で喋るとか、目配せで挨拶するとか……。そういうことは、お客様も自然とやってくださっていますね」

変えるもの、変わらないもの。

ベーシックな湯治宿を、今を生きる人びとの癒しの場に整えていく。その変革のヒントは、実際に宿で過ごす湯治客の姿にあったと橋本さんは振り返る。個々の宿泊客の過ごし方から、提供する湯治のイメージを膨らませていったそうだ。

「ご自分の生活リズムに合わせて一定期間、ゆっくり泊まっていかれたり、まとめて滞在はできなくても、数ヶ月に一度、一泊して『あぁ〜、生きてて良かった』と喜んでくださったりね。そういった方々を見ていて、こんな風に、生活の中に自然に湯治を取り入れていただけたら、本当に良いなと思ったんです」

「サリーガーデンの宿 湯治 柳屋」では、6月は休館にする試みだという。働き方改革として、スタッフにまとまった休みを確保し、宿の在り方を見つめ直す、大切な充電期間だ。橋本さんは「今年の休みが終わったら、ちょっとサービスのやり方を変えようと思っているんです」と企て顔で笑った。

「最近、旅館寄りのサービスに近づきすぎたかなと反省していて、もっと湯治宿らしく振り切って、つかず離れず、お客様を良い意味で放っておく形を極めよう、サービスを削ぎ落とそうと考えています」

一流のサービスを受けたい人には、一流のホテルや旅館がある。「ここでは、何ないけれど、自分で何もなさを楽しむような過ごし方をしていただけるようにしたい」のだとか。なんとも潔い方向転換だ。

「例えば、今はセットでお渡ししている朝食も、蒸籠をお渡しするだけにするとか。リネン類も、2泊目からは、お客様ご自身で決まった引き出しから持って行っていただくとか。そうしたら、必要ないものはここに入れて、あると便利なものはこっちに移して……という感じで、宿のお部屋が少しだけ、普段の暮らしに近づいていくでしょう?」

家での日常と、清潔な湯治宿。そのあわいで過ごす数日間は、想像するだけで心が休まる。橋本さんは「お客様がそれぞれの暮らしに戻られたとき、ご自身の暮らしを少しだけ好きになってくれたら良いですよね」と微笑む。

「ケーキ店も同じ気持ちでやっています。自分にお土産を買って帰って、お茶をする時間がホッとするものになれば良いなと。私は、ゆっくりした時間を持つことこそ、上質だと思っているんです」

館内の至るところに置かれている書籍。ふと「最近、写真集を買っていなかったな。立ち止まる時間を持ちたいな」という気づきを得たり、重厚感のある素敵な椅子が家にあるといいなと考えたり……。ゆっくりと過ごしながら思索を巡らせる自分自身に、日常生活の余裕のなさを思い知らされる。そうした気づきこそ、柳屋から持ち帰れるもっとも価値のあるお土産なのかもしれない。

「忙しい日常をストップするきっかけが必要なのかもしれませんね。今は社会全体が慌ただしいですから。湯治をして、もとの日々に戻ったときに、これまでより少しでも自分のことを好きでいられたり、少しでも暮らしが上質なものに変わっていてくれたら、それ以上の喜びはありません。」

街も、宿も、磨きをかける。

今、柳屋の宿泊客は、実に約4割がリピーター。これは、宿泊業界広しといえど、ちょっとした驚きの数字だ。2泊以上の連泊も、約半数に上るのだとか。

「私たちはずっと、リピートしていただくこと、連泊していただくことを、稼働率以上に大事に捉えてきました。自分の心を洗い流すとか、体をリセットするとか……お湯とまっすぐ向き合われる方。本来の湯治を求めている方が、繰り返し訪れてくださっているのではないでしょうか。ご自身の求めるものを知って、実践されている方は、素敵ですよね」

リピーターを増やすためには「もっと居たい」「また来たい」と思ってもらえるような場づくりが不可欠と語る橋本さん。

「心から良いと思ってくださったら、自ずとまた来てくださるはずなので。宿も、街全体も含め、この場を磨いていくということでしかない。それを真摯に繰り返しています」

そんな橋本さんの目から見て、別府はどのような場所なのだろうか。

「別府は団体のお客様も多い時代もありましたし、にぎやかで、独特の文化があって面白いですよね。でも、私が考えているのは、別府よりもっと狭い地域のこと。宿がある鉄輪のことです。鉄輪は山側で不便な土地なのですけれど、お湯が本当に良いの。だから、身体と心をじっくり癒す湯治が向いているのだと思います」

近年では昔ながらの湯治街、鉄輪に惚れ込み、移住してくる人も多いという。橋本さんは、移住希望者の受け皿として、アパートやコミュニティの紹介もしているそうだ。

「私だけではなく『冨士屋  一也百(はなやもも)Hall&Gallery』のオーナーの安波(やすなみ)治子さんと一緒に。彼女は外から来た私とは違って、100年以上の稼業を継いで旅館をギャラリーとカフェに生まれ変わらせた人なので、また視点が俯瞰的で興味深いんです。別府に来たら、ぜひ訪れてほしい場所のひとつ」

熱っぽく語るその姿に、鉄輪と湯治への愛が見て取れる。「温泉って、身体も緩めてくれるものだけど、心も緩めてほしいですよね」そう穏やかな笑みを浮かべる橋本さんの次の一手はどんなものだろう。わくわくしながら、次に訪れる日を心待ちにしたくなる。「サリーガーデンの宿 湯治 柳屋」は、そんな橋本さんの魅力をあまさず注ぎ込んだ宿だった。

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