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「復活への想いに蓋をし続けていた」黒糖焼酎マルシカに賭けた女性杜氏【松永酒造場】

徳之島のスーパーや売店でしばしば見かける、4合瓶に○で囲んだ“鹿”の文字。透明感あふれる焼酎と、色鮮やかな文字のコントラストが目を引く黒糖焼酎「マルシカ」は、2020年、約半世紀ぶりに復活した。造っているのは、代々女性が杜氏(とうじ)を務める「松永酒造場」の3代目・松永晶子(まつながしょうこ)さん。

「とにかく島から逃げ出したかった」という20代を経て、蔵の原点「マルシカ」を“ニライカナイ(注1)からの贈り物”として復活させた。大切な人の死に学び、杜氏として新たな一歩を踏み出したばかりだ。軽やかな感性で島に新しい風を呼び込む、女性杜氏の横顔に迫る。

(注1)沖縄地方で海のかなたや海底にあると信じられる理想郷の名称で,来訪神信仰の一つ。

「島から逃げ出そう」蔵を継ぐ覚悟が持てずにいた20代

「蔵を継ぐ意識は、まったくなかった」という晶子さんが、蔵の後継者になる話が持ち上がったのは、高校3年生の時。両親の薦めで「東京農業大学」へ進学したものの「まだ継ぐと決まったわけではない。そのまま東京で就職して、島を逃げ出そう」と考えていたという。

大学の研究室では、発酵の研究に没頭していたある日のこと。卒業を目前に控えた大学4年の1月、杜氏の母・玲子さんを支えていた父の仁(ひとし)さんが亡くなり、晶子さんは卒業と同時に、蔵に立つことに。

「蔵の仕事をすることも、島に暮らすことも、なかなか受け入れることができなかった」と当時を振り返る晶子さん。人一倍厳格だった2代目の母・玲子さんとは、現場で衝突することも少なくなかったという。

そんな晶子さんに変化が訪れたのは、杜氏として5年目に差し掛かった27才の頃。全国的な焼酎ブームが到来し、葛藤を抱えながらも作り手として仕事に奔走する日々だったという。

「母娘の杜氏は全国的にも珍しいと、メディアにも取り上げていただきました。取材を通じて客観的な視点を得たことで、ようやく母に対して“すごい仕事をしているんだな”という意識が芽生えました」

その頃から、次第に仕事に向き合う姿勢が変わったという晶子さん。そんな姿を見た玲子さんが言った「ありがとうね」という一言は、今でも晶子さんの心の支えになっているという。

「厳しい母に認められる杜氏になれるのか。ずっと自信がなかったんだと思います。そこで初めて認められた気がして、うれしかったですね」

「杜氏」の語源は、島の方言で妻を意味する「トゥジ」

女性の杜氏は全国的にも珍しい。しかし、そもそも「杜氏」の語源は、家事全般を担う女性を指す「刀自」にあるという。島の方言には、“妻”を意味する「トゥジ」として今に息づいている。

「“トゥジ”とは、万葉の言葉で“妻”を表します。奄美群島では、昔から酒造りは、台所に立つ女性の仕事だったんです」

その意味を汲んでいたかは、今となってはわからないが、2代目は酒造りのことをしばしば子育てに例えていたという。

「発酵する音に耳をそば立て、誰もが寝静まった夜中に蔵の様子を見にいくこと。熱を出したら冷まして、寒くなったら温めてあげること」

厳しさの一方で、愛情豊かに蔵と対峙する背中を見てきた。晶子さんも今では蔵のことを「我が子のように愛おしい存在」だと微笑む。

黒糖焼酎「マルシカ」を求める心の声に耳を傾けて

耳に残る「マルシカ」の名称は、奄美群島が米軍政下にあった、昭和27年の創業当時に醸造場を設立した港町・鹿浦の地名に由来する。ほのかに甘く、まろやかな味わいが特徴で人気を博した。

昭和40年には、黒糖焼酎を島の特産品として盛り上げるために、島内の5つの酒蔵で共同瓶詰会社を立ち上げ、統一銘柄を造ることに。松永さん親子も蔵元として尽力したが、この時から「マルシカ」は、事実上廃盤となった。

「マルシカを知る島の人たちから“もう一度、あの味を飲みたい”と言われることも少なくなかったんです。ただ、統一銘柄を造っている以上、他の銘柄を造ることはできません。私は、祖母や母、自分を含め、島の人たちの思いにずっと蓋をし続けていました」

1つの蔵で複数の銘柄を造ることは、設備的にも体力的にも難しい。「マルシカ」を本格的に復活させるためには、組合を抜けねばならない。

「マルシカ」が島から姿を消して約半世紀。時が経つにつれ、その味を知る人が1人、また1人と亡くなっていく。近しい人々の死を目の当たりにするたびに晶子さんは、内心“このままでいいのかな?”という思いに駆られていたという。

晶子さんが杜氏となった時、すでに「マルシカ」はこの世にはなかった。仕込みを知る母・玲子さんは、すでに2003年に他界していたため、頼れるものは自分の記憶と杜氏としての技術だけ。頭では醸造のシュミュレーションを何度も重ねながらも、なかなか一歩を踏み出せずにいた。そんな晶子さんが「マルシカ」復活に向けて動く覚悟を決めたのは、50歳目前のこと。背中を押してくれたのは、奇しくも大学時代の恩師の訃報だった。

亡き恩師との思い出がマルシカ復活への弾みとなる

「恩師を偲んで大学時代を過ごした研究室での日々を振り返りました。そこでふと当時、私が発見したある菌のことを思い出したんです」

黒糖から分離したその菌は、今現在も沖縄の工業技術センターに保管されているそう。

「その菌を使って唯一無二の黒糖焼酎を造りたい」

晶子さんの胸に湧き上がってきたその思いは、マルシカ復活への弾みをつけた。

「共同瓶詰会社に所属していると独自のお酒を造ることができません。だから、まずは、マルシカを復活させることから始めようと思いました。そして、いつの日か恩師とともに見つけた酵母菌を使って醸すこと。それが今の私の目標です」

完成させたマルシカを祈るような気持ちで、最初に試飲してもらったのは、晶子さんの実姉。

「一口飲んで“うちの味だね”って。心底ホッとしました」と破顔する。

その後の晶子さんは、水を得た魚のように次々と新たな味を生み出していく。徳之島に原木のあるシークワーサーの原種・シークニンや、有機栽培のグァバ茶を使ったオリジナルのリキュールは、爽やかな香りと風味が飲みやすいと好評だ。

「普段は缶チューハイしか飲まないママ友たちが、沖縄の柑橘を使った泡盛を“美味しい!”と言って飲んでいて。それを見た時に、自分がいつも飲んでいるシークニンをアレンジして商品化したら面白いかも?ってピンと来たんです」

「蔵出の酒に思はず願ひをり 楽しき酒に飲まれよかしと」

この言葉は「蔵から旅立っていくお酒は、いつでも楽しいお酒として飲まれて欲しい」。そんな願いを込めて、母・玲子さんが遺した言葉だ。

「皆さんに楽しい気持ちで飲んでいただけるお酒を、これから先もずっと造っていけたら」と願いを口にする晶子さん。

地域との繋がりも今まで以上に大切にしている。地元の高校生と一緒に商品開発をしたり、毎年5月9日・10日には蔵を解放した「マルシカ祭」を開催している。自宅にある容器を持参すれば、リーズナブルな価格で「マルシカ」を味わえる。島の人々が毎年心待ちにしているイベントだ。晶子さんは今、杜氏として本当の意味で自分らしい道を歩んでいる。

復活したマルシカシリーズの評判は、島に降り立てば誰もが実感できるはず。街の至るところで出会う「マルシカ」の姿は、島の人にはもちろん、島を訪れる人たちにも愛されている証拠だ。

「完成したばかりのマルシカを浜辺で撮影していたときのこと。最後のカットが撮り終わった瞬間に、瓶がろ丸ごと波に持っていかれたんです。それはまるで海の向こうにいる神様たちに“もらって行くね! ”と言われているような不思議な瞬間でした。その時にこのお酒は、“ニライカナイからの贈り物”なんだなと感じたんです。祖母や母の味を再現できているかは、いまだにわかりません。それでも、かつてのマルシカを思い出して“懐かしいね”と飲んでくださる方がいる。そのことが何より励みになりますね」

「ニライカナイ」とは、奄美地方で海の向こうや海底にある神様・ご先祖様がいるという世界を意味する言葉。先祖から受け継がれた技術で、丁寧に醸す黒糖焼酎「マルシカ」。島を訪れたなら、人々に笑顔を届ける“ニライカナイからの贈り物”をぜひ堪能してみてほしい。

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