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「父には一度も教えてもらえなかった」人気商品誕生の裏にあった父と娘の物語【五條堂】

大阪府東大阪市にある五條堂は、スイーツ好きの間で有名な和菓子店だ。

看板商品は、フルーツパフェを包み込んだような大福、「鴻池花火」。店舗では早々に売り切れることが多く、ふるさと納税の東大阪市の返礼品や数多の通販サイトでは常にランキング上位に君臨している。

この商品を発案したのは、二代目店主の柴田彩さん。創業者である父親、敏伸さんの後を継ぐため20年前からこの店で働き始めたが、実は、和菓子づくりを教えてもらったことは一度もないという。

彩さんに詳しくお話を伺うと、そこには昔ながらの職人気質の父と、そんな父の背中を追う娘……親子ならではのストーリーがあった。

別業種で3年働いた後、両親の和菓子屋に

やわらかい羽二重餅でブルーベリー、バナナ、オレンジ、フランボワーズ、パイナップルと生クリーム、こしあんをぎゅっと包み込んだフルーツパフェ大福。それが、東大阪の地名である“鴻池(こうのいけ)”の名を冠した「鴻池花火」だ。

その名の通り、大福の断面は色鮮やかで、5種のフルーツそれぞれの味わいが口の中で広がる感覚はまさに色とりどりの花火のよう。

和菓子と洋菓子、両方の魅力を兼ね備えた和スイーツは彩さんの得意分野だ。

杏やイチジクなどのドライフルーツと、クルミやピスタチオなどのナッツ類が7種も入った「羊羹みのり」は、食べるたびに異なる食感が楽しめるグラノーラのような羊羹。

東大阪市内にある“花園ラグビー場”にちなんだどら焼き「トライ焼き」は地元を盛り上げるために考案。生地にはラグビーのトライ姿の焼き印を押すなど、和菓子の既成概念にとらわれない自由な発想と、生まれ持ったセンスで、次々と人気商品を生み出してきた。

五條堂の創業は1975年。

生まれたときから常に和菓子がそばにある生活だったが家業を継ぐ気はまったくなく、アパレル関係の会社で働いていたという彩さん。

家に戻り、和菓子屋を手伝うようになったのは23歳のとき。父親の敏伸さんが体調を崩し、店を心配した母親から助けを求める連絡があったのがきっかけだった。家を離れたことで家業を俯瞰で見られるようになり、その魅力を再認識し始めていたことも彩さんの決断を後押しした。

「親を助けることができればと思って家に戻りましたが、店を手伝ってほしいと思っていたのはどうやら母だけ。父は私が家に戻った経緯を知らず、気持ちにすれ違いがありました」

しかし親子間の認識の齟齬が、結果的には「鴻池花火」をはじめとする五條堂の人気商品を生み出すことに繋がっていく−−−。

自分で学び、父とは違うものをつくる

店を手伝うようになり、父親から和菓子づくりを教えてもらえると思っていた彩さんは早々にその考えを打ち砕かれることになる。

「父は、何も教えてはくれなかった。それどころか、一向になんの仕事も与えられなかったんです」

しかし彩さんは不貞腐れるでも辞めるでもなく「仕事は自分でつくるものなんだ」と考え、自分にできることを探して居場所を見つけていったという。つくれないなら売ることをがんばろうと気持ちを切り替えた彩さんは、自分でデザインしてチラシをつくり、朝5時に起きてポスティングをするなど地道なPR活動に取り組んだ。

「印刷代がもったいないからやめろと父には怒られたんですけどね(笑)」

自分なりの方法で販促に取り組み、少しずつ注文が取れるようになってきた頃に分かったことがあった。それは、自分の商品じゃないと一貫して管理ができないということ。大々的に売っていこうとすると、それに合わせた製造管理が必要となる。しかし、これまで通りのペースも尊重したかった。

製造も手伝いたいという想いで、どうやったらお菓子づくりを教えてもらえるのか尋ねると「俺の手がまわらなくなるぐらい忙しくなったら教えてやる」と言われ、実際に忙しくなると「今は忙しいから教えられない」という父。そんな日々がしばらく続いた後、彩さんは気づいた。

「自分で学んでつくるしかない」

そこから彩さんは講習会に通ったり、本を読んで研究したり、独学で製菓を学び商品をつくり始めた。課題にぶつかるたびに、なんとか解決法を導き出しながら進む日々だった。

父親と同じ種類の和菓子を並べるわけにはいかない。そこで、和菓子のなかに洋菓子の要素を取り入れることを思いついた。

「父はいつも朝一番に工房に入って和菓子づくりをするので、自分は開店までに商品をつくって並べることができませんでした。そこで、できるだけフレッシュな状態を保てるよう冷凍できる商品を必死で考えたんです」

自分の商品を置けるスペースは小さく、お店に貢献できていないのでお給料が少ない。そこで今度は、自分の商品を自由に売れるスペース(=オンラインショップ)を立ち上げた。

「隙間産業という言葉がありますが、私の場合は最初からそれを狙っていたわけではなく、父の商売を邪魔しない隙間を探していたらそれが世の中にはない商品だっただけ。そして幸せなことに、お客様に求めてもらえるものでした」

自然と身に付いていた父の味

自分なりのやり方で、着実に和菓子職人としての歩みを進めていた彩さん。敏伸さんの反応はどうだったのか。

「何をつくっても、何も言わなかったですね。変なものをつくっても、失敗作が続いても、商品が売れても、父は何も言いませんでした。普通の師弟関係ならまた違ったんでしょうけど、親子ですし。その頃はお互い意地になっていたのもあって全然喋らなくなっていました。それでもやはり、五條堂の和菓子も教わりたい。父の味は、継いでいかなければいけないという思いはずっと心の中にありました」

そう考えていた彩さんは、2022年の年末、意を決して再び頼んだ。

「私に教えるのが無理なら、スタッフにでもいいから教えてほしい」。彩さんが必死で食らいつく姿を見ていた敏伸さんは、その願いをやっと受け入れてくれたという。しかし、翌月2023年の1月、敏伸さんは帰らぬ人となってしまった。

「結局、そのスタッフも一度だけしか父に教わることはできませんでした。今お店に並んでいる昔からの定番商品は、すべて私がつくっています。父からは直接教われないままでしたが、不思議なことに父の味がするんです」

忠実な味の再現は、創業以来ずっとそばで敏伸さんを支えてきた母・幸代さんのお墨付きだ。「最初に食べたときは驚きました。娘が初めてつくる和菓子のひとつひとつが全部、ちゃんと五條堂の味になっていたので」(幸代さん)

「今思うと、幼い頃からずっと父がつくった和菓子を食べて育ち、店を手伝うようになってからはつくる姿をずっと見て、自分なりの商品をつくるために父の和菓子を研究していたので……自然と身に付いていたんでしょうね」と彩さん。

家業に携わるようになって約20年。自分なりの和菓子を追求し、日々鍛練してきたからこそ、目で見て、舌で覚えている父の味を再現する技術が発揮できたのだろう。

父の和菓子をこの先ずっと愛されるものに

和菓子の師でもある父は、娘のことを一体どう思っていたのか。それを彩さんが知ることができたのは敏伸さんが他界した後だった。

「父が仲良くしていた和菓子屋さんから『あいつはもう俺を超えているから、何も教えることはない』と言っていたと教えてもらいました」

彩さんがつくる商品を食べる父の姿を見たことはなく、「美味しい」と言ってくれたこともなかった父のその言葉を、彩さんは不思議な気持ちで受け止めたという。

「私がどんな商品をつくっても父は何も言わなかったけれど、私が自由にやれるように静かに見守ってくれていたんだなと今は思います。一生懸命やってきたことはきっと伝わっていたんでしょうね」

「今は、定番の和菓子をつくるのがすごく楽しいです。父がずっと守り続けてきてくれた味に私なりの工夫をプラスして、これからもっとたくさんの人に和菓子を届けていけたら」と、ワクワクした表情で彩さんは夢を語る。

「鴻池という地名の付いた大福を、日本中、世界中に届けたいという夢もあります。そしてこのお店を知ってくれた人に、父の和菓子の味も知ってもらえたら嬉しいですね」

2022年5月には、大阪市内(肥後橋エリア)に2号店「ittan 五條堂」をオープンした。こちらは、五條堂の人気商品がテイクアウトできるほか、店内でイートインが可能なカフェスタイルでの営業だ。

「新店は、若いスタッフたちが中心となってやってくれています。本店でも、これまで私が担当していた事務作業を任せられるスタッフがどんどん育ってきました。父が私に対してそうしてくれたように、私もスタッフを信頼して見守っていきたい。お店のことはスタッフに任せて、私は和菓子作りに専念します」と笑う彩さん。

五條堂は「こころはずむ和菓子」がコンセプト。それを体現するかのように、お店にも、スタッフの間にも、笑顔が溢れていたのが印象的だ。

彩さんがリーダーとなって進むチーム五條堂の第二章は始まったばかり。これからどんな新しいお菓子が生まれていくのか。

世界の空に、鴻池花火が大きく打ち上がる未来を楽しみに待ちたい。

五條堂

Photo:辻茂樹

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