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〝機械は真似できない和包丁づくり〟日本一の技術集団を目指す製作所【山脇刃物製作所】

日本3大刃物産地として知られる大阪府堺市。

職人が1本ずつ手仕事で仕上げる「堺打刃物」は国の伝統的工芸品に指定されており、堺の和包丁はプロの料理人用の包丁としては約9割の国内シェアを占めているという。また近年は、空前の和食ブームと相まって世界中の料理人からも注文が殺到している。この堺の和包丁が、何百年にも渡って料理人たちから熱い支持を受け続ける理由とは何なのだろう。機械生産の技術がどれだけ上がっても、手仕事との間には絶対に埋められない差があるという刃物職人の世界。この世界に実際に触れるべく、堺市内で96年に渡って刃物の製造・販売を行い、13年前からは自社内で職人の育成も行っている技術集団、「山脇刃物製作所」を訪問した。

堺打刃物の歴史と特徴

約600年の歴史を持つ堺の刃物生産。起源となる金属加工がこの地で行われるようになったのは遥か昔、5世紀の古墳時代だといわれている。堺市には仁徳天皇陵や百舌鳥古墳群など数多くの御陵・古墳が残っているが、当時この古墳築造にあたって鍬や鋤などの道具をつくる人々が堺に集団をつくった。それが、堺の鍛冶技術発展の礎となったと伝わる。

産業として発展したのは、ポルトガルからタバコが伝わり国内でもタバコの葉が栽培されるようになった16世紀頃。タバコの葉は燻製にする前に細かく刻む必要があったため、包丁鍛冶技術のある堺でタバコ包丁が大量につくられるようになった。堺製のタバコ包丁は輸入品のタバコ包丁より切れ味が優れており、江戸幕府から「堺極」という極印を入れて売ることを認められたという。これをきっかけに堺の刃物は全国に名を馳せ、地域産業として確立することとなった。

「堺打刃物は、片刃構造が生み出すスパッと鮮やかな切れ味が特徴。両刃に比べて刃の角度が鋭いので、食材の断面も美しくなめらかです。また、製造に関しては『鍛冶』、『刃付け』、『問屋』に分かれた分業制を取り、各工程をそれぞれのプロが担っているのが大きな特色。各職人が専門技術を磨き上げることで、高い品質を維持し続けているのです」と説明してくれたのは、山脇刃物製作所2代目社長、山脇良庸さんだ。

火造りや焼入れで包丁の生地をつくる鍛冶屋。それを研いで刃物をつける刃付け屋。各職人の調整をしながら、柄付け・銘切を行い、商品を卸す問屋の完全分業制。そのなかで山脇刃物製作所は、問屋でありながら刃付けの工程も同時に担っているという堺でも珍しい存在である。

問屋の仕事は、総合監督

1927年の創業から本職用高級包丁を主に、家庭や調理師学校など幅広い対象に向けた包丁の製造・販売を手掛けてきた山脇刃物製作所。鎌倉時代の刀工の名を冠したメインブランド「郷右馬允義弘(ごううまのすけよしひろ)」は日本のみならず海外でも高い評価を受け、この包丁を求めて世界中の料理人が同社を訪れる。

「うちはいわゆる問屋にあたりますが、問屋といってもただ商品を卸して販売するというのではなく、商品企画から職人への発注、取りまとめ、流通までをコーディネートする製造問屋です。職人さんにはそれぞれに得意分野があるのでそれをしっかりと見極め、商品に合わせてその都度ふさわしい職人に依頼する。いわば、総合監督のような仕事ですね」と山脇さん。

「最終の仕上げである柄付けもここで行います。柄付けという仕事は鍛冶や刃付けに比べると軽視されがちですが、せっかくの刃を生かすも殺すも仕上げ次第。刃を歪みなく柄に垂直に差し、重心のバランスを整えるというのが職人技。これは何十年と経験を積んで得られる数値化できない感覚的なもので、機械には真似ができない。この仕事の面白いところでもあり、技を伝承するという意味では難しい部分でもあります」

品質を維持するための選択

山脇さんが同社で働き始めたのは25歳の頃。当時勤めていた商社が倒産し、仕方なく家業に入った。働き始めた頃は包丁業界の狭さや職人世界のしがらみが面倒で、仕事が楽しいとはまったく思えなかったという。

「意識が変わり始めたのは数年後。努力しないと状況は何も変わらないことをだんだんと痛感し、ようやくこの世界で真剣にやっていくぞという覚悟が固まりました」

仕事への取り組み方が変わると、この世界で戦ってきた父の苦労がよく分かるようになったという山脇さん。父親への尊敬の気持ちが仕事へのモチベーションとなり、これまでマイナスにしか見えなかった問題は、挑戦すべき課題に変わったという。不思議なことに、嫌で仕方がなかったこの世界の狭さにも愛着を感じるようになっていた。この会社を、この包丁業界全体を、もっと良くしていきたい。そう考えるようになったのは、仕事を始めて10年目の頃。最初のターニングポイントだった。

山脇さんがまず取り組んだのは、包丁という商品を高級化すること。

「そのためには、ひとつひとつの工程をさらに丁寧に行い、仕事のクオリティを上げることが大切でした。他社の製品とは違うオリジナリティを追求し、唯一無二の製品を生み出さなければ」。そう考えた山脇さんは、これまで以上に職人と密にコミュニケーションを取り、作りたい商品にあわせて各分野の職人を選ぶという工程に力を入れた。

当時、堺に鍛冶屋は約60軒、刃付け屋は約130軒も存在していた。その中からどの職人を選んでどう仕上げるか、それが問屋の腕の見せどころだったという。ところが、その頃から刃物を作る会社や職人がみるみる激減。世の中では機械を使った大量生産化が進み始めた頃だった。それに加え、職人の高齢化や後継者不足といった問題も重なった。

「もう職人を選んでいられるような状況ではなくなったわけです。かと言って、製品のクオリティを下げるわけにもいかない。そこで、自社で刃付けの工場を持つという構想が生まれました。そこが2つめのターニングポイントでした」

構想を練り始めたのは約20年前。実際に刃付けの工場が稼働しだしたのは13年前のこと。実現まで7年という年月がかかったのは、工場を用意しても中で働く人がいないという問題があったからだ。

「ただでさえ職人が減っているなか、この狭い業界でヘッドハンティングをすれば不要な軋轢を生んでしまう。自社内に職人を抱えるというのは、難しい問題でした」

職人志望の青年との出会い

ある日、1人の青年が会社を訪ねてきた。伝統工芸に憧れており、ここで働かせてほしいという。そこで山脇さんは、知り合いの鍛冶屋や刃付け屋に相談した。だが、返答は「もう弟子は取らない」というものだった。その理由は3つ。

①足手まといになる ②給料を払えない ③成長したらやがてライバルになる

後継者不足に悩んでいるかに見えた職人業界だったが、実は、後継者を育てようとしない(育てられない)という内情もあったことにそのとき気づいたという。しかし「せっかくの職人志望の青年を一体どうしたものか」と考えていたタイミングで奇跡のような話が舞い込んだ。とある刃付け職人が自分の工房を畳んで引退を考えているという。

「すぐにその職人に連絡を取り、技術を伝授してほしいと頼み込みました。その方が仕舞うつもりだった工場と道具一切を買い取り、指導料も支払うという形で職人の育成をお願いしたのです。現役の職人は技術の流出を嫌がるものですが、引退する職人は自分の技術を人に伝えたくなるもの。ありがたいことに、需要と供給が噛み合いました」

そこから、師匠と弟子の間で徹底的な技術の継承が行われた。「失敗を恐れずにどんどん挑戦すべし」という方針のもと、ひたすら実践を積んだ職人志望の青年は、2年後には一端の刃付け職人になっていた。

「日本一の技術集団になれ」

現在、山脇刃物製作所では3名の刃付け師が働いている。

1番上の兄弟子の名は五十嵐宣さん。伝統工芸に携わりたいと言って、会社の門を叩いたあの青年だ。同社の刃付け職人としてはもう13年のキャリアになる。「今や五十嵐も教える立場です。五十嵐が研ぐ包丁は、現在の堺ではトップレベルですよ」そう言って山脇さんは嬉しそうに笑う。

左・五十嵐宣さん/右・出雲巧真さん

「五十嵐が研いだ包丁が欲しいと言って、ここまで買いにくる人が大勢います。私が目指した“高級化”というのは、まさにそういうこと。一種のブランディングです。量より質。手を抜かずに、時間をかけてきちんといいものをつくること。自社製品に誇りを持つこと。それが何より大事だと思っています」

社長のその考え方のもと、山脇刃物の職人たちは今日も時間をかけて技を磨き上げ、最高品質の刃物づくりに励んでいる。

「常々社員にも自分にも言い聞かせていることがあります。それは、『日本一の刃物屋になろうと思うな。日本一の技術集団になれ』ということです。伝統を守るということは、技術を守るということ。そこに、職人としての喜びを感じてほしい」

そう語る山脇さんの言葉には、入社10年目のターニングポイントで感じていた「この包丁業界全体を良くしていきたい」という深い想いが変わらず詰まっている。長い歴史を持つ地元の伝統工芸を愛し、尊重しながら、より洗練された職人技を追求し続ける技術集団。その弛まぬ努力に裏付けられた職人としての誇りこそが、堺打刃物が世界で愛され続ける所以なのかもしれない。

山脇刃物製作所

Photo:辻茂樹

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