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なぜ、若者が自腹で岩沢地区に? 「唯一の小学校廃校で危機感」【岩沢アチコタネーゼ】

新潟県小千谷市の山間部に位置する岩沢地区。緩やかな山腹には棚田が広がり、山間地特有の寒暖差と豊富な湧き水が美味しい米を育んでいる。日本の原風景を感じさせるのどかな里山は美しい。しかし目立った観光スポットがあるというわけではなく、住民は岩沢地区を「なにもない」場所だと言う。近年、この地区では過疎化や高齢化が著しく、この10年で人口が約1000人から約700人まで減少した。

そんな岩沢地区でNPO法人でもない、民間企業でもない、有志によるゆるやかな住民団体が活動している。名前は「岩沢アチコタネーゼ」。住民や岩沢に縁のある30代から80代の約20人が参加しており、地域の暮らしを支え、地域外とのつながりを持ち続けるための活動を長く細く続けている。メンバーの職業は卸売市場の仲卸人や市議会議員、酒蔵の蔵人など様々。「岩沢アチコタネーゼ」が取り組みや、地域活動継続のヒントについて、代表・関口貞幸さん、副代表・駒井和彦さんに伺った。

地域外から人を呼び込み、地域内の資源や人を生かす

岩沢地区の方言で「あちこたね」は「大丈夫」「心配ない」という意味だ。岩沢が直面している様々な難題にも「あちこたね」の心持ちでアプローチしていきたいという想いから、「アチコタネーゼ」という団体名が生まれた。

岩沢地区ではここ10年間、人口減少や人口流出が止まらない。高齢者の多くは岩沢に住めなくなり、小千谷の市街地や隣市で新潟県の第二都市である長岡市へ移住するのだという。なぜ岩沢に住むのは難しいのだろう?

「個人的に一番大きな要因と考えているのは、やっぱり雪ですね。冬になるとこのあたりは4メートル前後の降雪に見舞われます。ただでさえ公共交通機関が少なく買い物や通院が難しい場所なのに、冬はさらに外出するハードルが高くなります」(駒井さん)

「アチコタネーゼ」では、毎年12月から3月のあいだ除雪支援を行っている。依頼者のほとんどは一人暮らしの高齢者。自宅の屋根上や周辺道路の雪おろしを有償で手伝うことで、メンバーへの還元や団体活動費に充てている。

地域に不可欠な活動は雪おろしだけではない。増え続ける耕作放棄地の棚田を整備し、コシヒカリを育てている。豪雪によって地下から湧き出た自然水を汲み上げて栽培した米は「棚霧天水米 博」として販売。毎年5月上旬には「田植えツアー」、9月下旬には「稲刈りツアー」と称してイベント的に米作りを行い、外からボランティアの参加を受け入れている。

さらに岩沢で採れた米や野菜などを使った郷土料理や山菜料理を振る舞う農家レストラン「より処 山紫」や岩沢地区にある岩山集落の台地に佇む木造の旧家を利用した農家民宿「へんどん」*を運営するなど活動は多岐にわたっている。岩沢地区には郷土食や農業をテーマに活動する女性たちによる団体がいくつかあり、そのメンバーと連携する形で地域に仕事を生み出してきた。地域外から人を呼び込みながら、地域内の資源や人を生かすという両面からアプローチしている。

*コロナ禍を受けて、現在休業中。

“なにもない”は学生にとっては魅力

そもそも「岩沢アチコタネーゼ」が立ち上がったきっかけは、2004年に発生した新潟県中越地震だった。岩沢地区のある中越地方を震源としたこの地震は最大震度7を記録し、小千谷市でも6強を観測。この頃から人口流出が加速し、空き家が増えていくなか、有志の老若男女を集めた寄り合いを開催することになった。その寄り合いで「岩沢アチコタネーゼ」の原型となるアイディアが生まれ、また「復興員制度」で他県からやってきた支援員の尽力もあり、形になっていった。

また、2012年に地区唯一の小学校だった「岩沢小学校」が閉校し、138年の歴史に幕を閉じたことが活動の勢いを後押しした。「地域の小学校がなくなるということは、地域の老若男女の拠り所がなくなったということです」と駒井さんは言う。そんな強い危機感から誕生したのが農家レストラン「より処 山紫」だった。

「より処山紫は、地域外の人に田舎料理や山菜料理を楽しんでもらうという目的もありましたが、その名前の通り地域の人のための場所にしようと思っていました。実際に、学校帰りの小・中学生や高校生が地域おこし協力隊の若者と遊んだり話したりする場となり、さらに地域のおじいちゃんおばあちゃんたちがお茶を飲みながら井戸端会議をする賑やかな場所になりました」(駒井さん)

さらに同時期の2012年からは、法政大学の「地域づくりインターンの会」の大学生を東京から受け入れるようになった。「地域づくりインターンの会」は、「首都圏に住む学生が地方の農山漁村に赴き、そこで生活をしながら住民と一緒に地域づくり活動に取り組むこと(団体HPより)」を目的とした学生主体の団体。大学生に来てほしい地域と地域に関わりたい大学生をマッチングする。駒井さんたちは東京へ足繁く通い、興味を持ってくれる大学生を増やそうとプレゼンテーションを行った。「岩沢地区はなにもないから楽しんでもらえると思ったんです。『なにもないところから何かを生み出す経験をしてみませんか?』と話していたら、優秀で意欲的な大学生が来てくれました」と駒井さんは笑顔で語った。

「岩沢アチコタネーゼ」が立ち上がり、学生インターンが夏休みなどを使って長期的に町へ滞在するようになってからは、「街に笑顔の人が増えた」と駒井さんは実感を話す。その後も2017年には首都大学東京の建築学科の学生が民家や米倉を改修し、農家民宿の「へんどん」やレンタルスペースの「アチ庫ホール」が生まれるなどして、学生と岩沢地区の交流は深まり、定着していった。しかし2020年と2021年はコロナ禍の影響を受け、地域外からの受け入れを停止。やっと今年から地域の外から人を呼んだ田植えを再開した。

一過性で終わらない秘訣は「ほどよい距離感」

取材当日、「田植えツアー」には20〜30代の若者が5名ほど参加していた。「地域づくりインターンの会」の一期生として岩沢地区へ来た三人のメンバーも含まれている。三人とも今は社会人として首都圏で働いており、関東出身で新潟には縁もゆかりもない。彼ら曰く「地域づくりインターンの会の学生は東京出身者が多く『地元がない』人が多かった」。2012年は東日本大震災が発生した翌年で東京という都市のもろさが露呈して地方への関心が高まり、移住やまちづくりが注目された時期でもあった。しかし、岩沢地区では一過性のブームとして地域活動が終わることなく、10年経った今でも地域外との繋がりが途絶えていない。その秘訣はなんなのか?

元学生インターンのひとりはこう答えた。「田植えや稲刈り、朝市、収穫祭などイベントがあるたびにお知らせが来るんです。プライベートの用事があって行けないときは行けないのですが、別に行かなくても何か言われるというわけではない。その距離感がいいのかなと思います。待っていてくれる人がいるということが嬉しいです」。彼は、岩沢地区に来るのは初めてだという友達も連れてきていた。

一方で「岩沢アチコタネーゼ」として迎え入れるメンバーはどう考えているのだろう?駒井さんは「肝心なのは、とにかく粘り。こまめに連絡すること。あとは地域の活動は楽しくないと続かないと思っています。だから田植え後の懇親会は大いに楽しみますよ」と笑った。

関口さんは「活動初期のアチコタネーゼの会員数は50人でしたが、いまは20人に落ち着きました。でも学生が社会人になって交通費まで自腹で、自力で岩沢へ来るようになり、さらに友達まで連れて来てくれるようになりました」と嬉しそうだ。

地域の活動には波があり、活発なときもあれば停滞気味の時期もある。しかし、一度できた縁は細く長くつながり続けることができる。粘り強く取り組めば人が人を呼び、地域にまた新しい人がやってきて、その縁はさらに広がっていくのかもしれない。

photographer:神宮巨樹

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