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「塩で人類を救いたい」物理学者と発明家を目指した男の願い

コロナ禍で多くの企業が業績不振に喘ぐ中、売り上げを伸ばしている小さな会社が沖縄にある。製塩業を営むぬちまーすだ。

昨今の健康志向の高まりに加えて、コロナ禍で多くの人たちが自然の恵みの大切さを実感したこともあり、同社の看板商品であるパウダーソルト「ぬちまーす」は爆発的な人気に。今でも入荷したら即完売という状態が続く。増産に向けて新しい工場を建設中である。

しかし、同社のここまでの道のりは決して平坦ではなく、倒産寸前まで追い込まれたこともあった。それでも諦めなかったのは、「人類を救いたい」という高安正勝社長の強い信念があったからこそ。その足取りをたどる。

「お前は湯川秀樹になれ」

ぬちまーすが生まれたのは偶然ではなく、必然だった——。高安社長は自信を持ってそう語る。それは、高安社長が幼少期から学んできた数々の物事がすべて結実したものだったからだ。

「湯川秀樹になれ」

子どもの時に父から言われたことを高安社長は忘れない。小学1年から4年まで、毎晩のように父親の晩酌に付き合わされた。その場から離れることも許されず、沖縄、日本、そして世界の偉人の話などを繰り返し聞かされた。そこでよく父は湯川秀樹博士を褒め称えていたという。

「父は海軍学校で訓練を受けているときに終戦になった。日本は神の国だから負けるわけがないと言われて戦争に行ったのに、沖縄に帰るとすべてが焼き尽くされて何も残っていなかった。日本は世界の最劣等国に成り下がったという意識を持って生きていたら、1949年に湯川秀樹がノーベル賞をもらったわけさ。あの終戦の打ちひしがれたときに、まだ日本も捨てたものじゃないと思わせたのはすごいことだと。それで親父は僕に湯川先生になれと言った」

そして、もう一人の偉人、トーマス・エジソンも目指しなさいとなった。高安社長は小学生の時に、物理学者と発明家になる夢が決まったわけである。

中学、高校と理系の道を歩み、大学でも当然物理を専攻しようと考えた。ところが、志望していた本土の大学入試に落ち、琉球大学へ進学したものの、湯川博士の専門である理論物理学はコースになかった。

「そこで選択したのが生命物理」と高安社長は振り返る。生命物理とは、生命の本質を物理的な手法や考え方で解明しようとする学問のこと。まさにこの時に、生物にとって海水や海塩がいかに重要なのかを論理的に学んだ。

大学卒業後は航空会社に就職し、主に運行管理の業務に従事した。12年間勤めた後、今度は洋ラン栽培に携わる。そして1996年には新たな栽培用装置を発明した。具体的には温室ハウスを冷却するための細かい霧を発生させるもの。

「街中でも夏場に霧を散布する機械があるでしょ。でも、あれは水の粒が大きかったり、粗かったりするから、洋ランが傷ついてしまう。そうではなく、水を一様に気化する装置を開発した」

塩は売れるが、累積赤字は1億6000万円に……

明くる年の1月4日、高安社長は新聞を見て奮い立った。その年の4月から塩の専売制が廃止になるというのだ。

「塩で人類を救おうと確信したね。前年に発明した装置に海水を入れて霧にすると、霧は蒸発して、塩だけが落ちてくる。パウダーソルトの製法が瞬時に閃いたわけ。また、生命にとって塩がいかに大事なのかというのもよく知っていた。僕のこれまでの経験が全部ここでつながった」

すぐさま高安社長は「ベンチャー高安」という社名で塩の製造会社を立ち上げる。温室ハウスを工場に変え、毎日10トントラックで海から水を運んできては、塩作りに励んだ。従業員は当然、高安社長一人である。

早くも2月にはパウダーソルトの開発手法を「常温瞬間空中結晶製塩法」として特許申請した。

ところが、周囲からは理解を得られず、銀行などの融資も受けられなかった。

「こんなんで塩ができるわけないだろうとか、本当に大学卒業したのかなどと馬鹿にされた。発明展でも入賞しないから、お金を出してくれるところもなかった」

ただ、98年に商品化したパウダーソルトに関しては、営業すれば飛ぶように売れた。初年度に3000万円、2年目は5000万円、3年目は1億円もの販売実績となった。

「売れはするけれど、経営は厳しかった。製塩機の製造や維持にかかる費用があるからね。最終的に1億6000万円の累積赤字になった」

人類を救う塩だから、いつかは皆わかってくれるだろう。この可能性を高安社長は信じていた。資金が続くか、それとも倒産してしまうか、問題はそれだけだった。

“逆輸入”で大逆転

そんな高安社長を救ったのは、海外からの評価だった。ドイツやフランスで行われた見本市に出展すると大きな評判を得た。その実績を引っ提げて、日本に“逆輸入”した。「ぬちまーすは、よくわからん人が作っているが、良いものなんだという話になった」と高安社長は振り返る。

資金繰りの問題も一気に解消した。例えば、沖縄振興開発金融公庫は創業時から毎年融資を依頼するも一向に貸してくれなかったが、ついに8年目には5億1500万円を用意してくれた。それを元手に、うるま市・宮城島に本社を移転するとともに、2007年には「ぬちまーす観光製塩ファクトリー」をオープンすることができた。

そこからはうなぎのぼりの事業成長を遂げ、現在は年間売上高が約4億5000万円、従業員数50人ほどの企業にまでなった。建設中の新工場に関しても、すぐに金融機関が3億円を用意してくれたそうだ。

寿命を延ばせばいいだけ

人類を救うという地球規模のスケールで事業を推進する高安社長だが、足元である地元・うるま市に対する気配りも忘れてはいない。市内すべての幼稚園、小学校、中学校の給食に、毎月60万円分のぬちまーすを提供している。これは、もう10年以上続けている取り組みである。

沖縄への貢献という点では、ほかにもある。島バナナの栽培にも挑戦しようとしているのだ。

「次は、島バナナの栽培方法を発明しようと思っている。今まで島バナナは台風に弱いとか、病気になりやすいとか、いろいろな栽培の問題があった。それらを全部解決したい」

高安社長の発明意欲は止まることを知らない。

「人類を救うと言った以上、まだまだやらなくてはいけないことがある。そのためには、そろそろ寿命を延ばしていかないと。111歳まで生きるシステムを作りたい。そうしたら僕はまだ75歳だから、あと26年も生きられる」

寿命を延ばせばいいだけの話だよ、簡単さ。こうあっけらかんと話す高安社長。人類の未来のためにもまだまだ長生きしなければならない。


撮影:崎原有希

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