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「一度消えた“幻の切子”」薩摩切子復元に携わった切子師の挑戦【ガラス工房弟子丸】

鹿児島県霧島市隼人町にある薩摩切子の販売やカット体験ができる施設「ART DESHIMARU」。その入り口の自動ドアが開いた瞬間、紅や黄、藍色に黒色といったガラス製のグラスや皿が彩る、宝石箱のような光景が目に飛び込んでくる。グラスを手にとってみると、その色合いの深さや力強く刻まれた文様の迫力に思わず息を呑む。

江戸時代末期に生まれ現代まで続く、日本を代表するカットガラス細工「江戸切子」。それより少しだけ遅れて誕生した薩摩切子だが、その歴史はわずか30年足らず。幕末から明治維新の動乱の中で一度消えた“幻の切子”の復元事業に携わり、現在は独立して薩摩切子の制作や販売を手掛ける「美の匠ガラス工房弟子丸」を立ち上げたのが、切子職人の弟子丸 努さんだ。

復活した伝統工芸と共に切子師としての歴史を刻む弟子丸さんが掲げる「炉火純青(ろかじゅんせい)」という言葉への想いとは何か。伝統工芸の枠に留まらず表現の幅を広げている薩摩切子の魅力や可能性についてお伺いした。

時代を越えて復元へ 切子師たちの挑戦の歴史

「それまで色がついているガラス自体をあまり見たことがなくて。いろんなカットが入ってキラキラするその美しさに感銘を受けて、こういうのを自分も作りたいなと思いました」

そう初めて薩摩切子を見た感想を語る弟子丸さんが、高校を卒業したタイミングと同時にスタートしたのが薩摩切子の復元事業だ。

江戸時代の後半1851年(嘉永4年)、第28代薩摩藩主・島津斉彬(なりあきら)の指示よって海外交易などの目的で発展した薩摩切子。1858年(安政5年)の斉彬の急逝によりその事業は大幅に縮小、1877年(明治10年)の西南戦争前後には薩摩切子の製造は途絶えたと言われている。それから約100年後の1985年(昭和60年)、“幻の切子”の復元に立ち上がったのが島津家の子孫たちが中心になって設立した「薩摩ガラス工芸」(現在、「島津興業」に統合)だった。

その薩摩ガラス工芸に入社した弟子丸さんは「当時、右も左もわからないままに切子職人の世界に入って、先輩の指導を受けながら一つひとつ仕事を、技術を覚えながら経験を積んでいきました」と当時を振り返る。

多くの人の尽力により、1985年に「紅・藍・緑・紫」四色の薩摩切子の復元が成功。その後に金赤や黄色など、今では単色に限らず「瑠璃金や蒼黄緑」といった二つの色を組み合わせたものなど、薩摩切子の世界は広がっている。

薩摩ガラス工芸で切子師としての下積みを積んだ弟子丸さん。立ち上げメンバーの一人となった1994年(平成6年)創業の「薩摩びーどろ工芸株式会社」時代には、当時は実現困難とされていた黒色の薩摩切子開発にも携わった。「薩摩切子の復元には皆さん熱意を持って取り組まれていたのではないでしょうか」と問うと、こう弟子丸さんは返した。

「そうですね。みんなガラス細工やモノ作りが好きでしたから。薩摩黒切子開発の時には、弊社開発チームから『カットが難しいので簡単な模様でもいいから作って欲しい』とまで言われたんですけど、『どうせやるなら難しいことに挑戦しよう』と取り組みました」

弟子丸さんが話すように、多くの切子師たちの情熱とチャレンジ精神によって、薩摩切子に新たな価値が吹き込まれている。2011年(平成23年)には一人の切子師として独立して自社工房を設立した弟子丸さん。以前なら捨ててしまっていたガラス廃材を利用してアクセサリーにする「ecoKIRI(エコキリ)」など、自身も薩摩切子の新たな魅力を創造し続けている。

薩摩切子だけが持つ色の深みをもたらす“ボカシ”

「薩摩切子は純金やコバルトなどの鉱物で色をつけます。その色の厚さや大柄なカットに日本らしさを私は感じています。ほとんどのガラス細工は色が薄くてシャープなのものが多い中で、薩摩切子のような雰囲気出しているものは世界中見渡してもほとんどないのではないでしょうか」(弟子丸さん)

透明ガラスの上に色のついたガラスを被せる「色被せ(いろきせ)」という技法で作られている薩摩切子。同じ色被せの技法で作られている江戸切子と異なる魅力を放つ理由が、“ボカシ”と呼ばれる薩摩切子独特のグラデーションの美しさだ。

「江戸切子の場合、生地となる色ガラスの厚みが0.5ミリと色が薄くなるのでシャープな印象になります。しかし、薩摩切子の場合、色ガラスが1ミリから2ミリの厚みがあるので、色が厚くなるんですよ。その厚みがある分深く掘り込んでいって段々と透明にしていく。ここの部分がボカシになるんです」

薩摩切子の生地となる素材はクリスタルガラス。弟子丸さんの工房では生地を取り寄せてカット工程から薩摩切子を制作する。文様の種類も「魚子文(ななこもん)」や「八角籠目(はっかくかごめ)」、「十六菊文(じゅうろくきくもん)」など100種類以上。その文様を組み合わせることで多様な表現を可能にしている。

「カット工程を最初から最後まで細かく分けると10工程ぐらいです。『割付』といって目安の線を引いて、その線に沿ってカットする。そのカットにも『荒彫り』や『中彫り』と、いろんな設定があるんですね。仕上げに面取りしたり傷を取ったりして、その後に『磨き』という工程に入ります。磨きだけでも5工程ぐらいあるんですよ」

職人の手によって多くの工程を経てようやく完成する薩摩切子。弟子丸さんの工房では「霧島切子」の名称で販売している薩摩黒切子の制作には、その中でも特に多くの手間暇と職人の経験やカット技術が必要だという。

「明るい色をカットする場合、透けて見えるガラスの内側から確認しながら削っていきます。しかし、黒色の場合は全く透けて見えないので、カットするために使うダイヤモンドホイールがどこに当たっているかわかりません。今までやってきた手の感覚だけを頼りに掘っていく感じですね」

1997年(平成9年)には鹿児島県の伝統的工芸品に指定された薩摩切子。紅色や黒、さまざまな色彩とデザインで私たちを魅了するオンリーワンのカットの煌めきには、切子師たちの汗と卓越した技が詰まっている。

職人の青い炎の魂を受け継ぐ若者たち

「一人でコツコツ作りたいなと思って独立したんですが、『私も薩摩切子を作りたい』という人がどんどん集まってきて、結局今14名にもなります。その中には20代や10代もいて、学生の頃の薩摩切子のカット体験をきっかけにうちに来てくれた20歳の子もいました。彼女は自宅から工房まで2時間をかけて夏休みバイトに来てくれていて、高校卒業後にそのまま就職しています」

「切子師は10年ぐらい修業してからがようやくスタート」と弟子丸さんが話すように、一人前の切子師を目指す道のりはそう甘いものではない。弟子丸さんの独立時に工房に入社し、今では弟子丸さんと共に切子のカットを手掛ける下梁(しもやな)友太さんは語る。

「入社してもカットという煌びやかな仕事がすぐできるわけではありません。汚れるようなゴミゴミした仕事が多いので、それに耐えられなくて辞めていく人も多いです。準備の段階の下積みを3年、それからアクセサリーなどの作業に移ってさらに3年、その後ようやくカットになっても、はじめは一部分だけです。自分の作品を手掛けるようになるのは、それからさらにまた何年かという感じです」

「一度途絶えている技術なので、ちゃんと人を育てて繋いでいかないといけない」と話す弟子丸さん。「まずは今自分のできることをきちんと完璧にこなすこと。その上でどんどん新しいことに挑戦しながら、仕事を少しずつでも覚えていきなさい」と周囲にはアドバイスしているという。

「私たちが掲げている言葉に『炉火純青』というものがあります。温度が高くなると炎が青くなりますよね。『切子師としての技術が最高に達成するような領域を目指そう』という想いで、この言葉を選んでいます。技術的にはみんなまだ赤い炎だと思うんですよ。薩摩切子が本当に好きで集まっていると思うので、一人一人が『最高の青の炎を目指していく』という目標を持てたらいいなと思っています」

下梁さんに「今後の目標は?」と質問してみた。

「今はやっぱり全てができるというか、手伝ってもらわなくても一人で全てできる技術を身につけることが直近の目標です。できないことができるようになったときは達成感があります。自分の作品を観たお客さんが『これいいな』と言ってくれる瞬間はやっぱり嬉しいですよね」

その力強い表情は切子師として目の前の仕事に懸命に向き合っている充実感に溢れていた。

伝統工芸を再解釈して新たに生み出す価値

「現在のニーズに合わせて薩摩切子の新しいものをいっぱい作っていきたいと思っています。そういう新しいモノ作りを通して、お客さまや多くの人たちと感動を共有したいですね」(弟子丸さん)

実際に飲食店とコラボしたオリジナル焼酎グラスの開発や薩摩切子の技を応用したステンドグラス「FUSION(フュージョン)」など、薩摩切子の新たな活用の仕方や魅力の発掘は伝統工芸の枠に収まらない。「宣伝していないのに、どんどん人気が広がっている」という廃材ガラスを活用したアクセサリーシリーズ「エコキリ」もその一つだ。

「一般的な薩摩切子のグラスだと数万円するのですが、エコキリのアクセサリーだと4、5千円ほどで購入できるので、『今はエコキリだけど、いずれは器を買いたいね』という新たなファン層の拡大にも貢献していて、やってみて大当りだったなと思っています」

幻の切子の復元、黒切子や現代のニーズに合わせた商品開発といった数々の挑戦に切子師として携わってきた弟子丸さん。しかし、「一生勉強中ですね。生涯現役でやっていかないといけない職業ですから。ゴールはないと思います」と話すように、その職人としてのチャレンジ精神が曇ることはない。虹色のグラスや「透かし彫り」という薩摩焼の技法を使った薩摩切子の制作など、今もなお新しい表現方法に挑み続けている。そんな弟子丸さんが仲間たちと目指す視線の先は世界だ。

「以前、薩摩切子を持ってドイツに行った時に、『モノはいいし、きれいだけどノーブランドなのに高い』と言われたんですよ。何千年の歴史を持つヨーロッパのガラス細工に比べたら、薩摩切子の歴史はまだ150年とかそんなものです。だから、いつか世界のブランドの仲間に入れるように頑張らんといかんなと思っています。私の世代では無理かもしれないけど、その時は次の世代に託してですね」

幕末に生まれた唯一無二の美しさに魅了された切子師たちが、その魅力と価値を積み上げている薩摩切子の世界。彼ら彼女らの情熱の青い炎が伝播することによって、その煌めきはいつか世界にも届いていくにちがいない。

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