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「200年来の伝統製法は子育てのよう」黒酢を生んだ2つの“キセキ”【坂元醸造】

桜島を望む海岸沿いにある鹿児島県霧島市福山町。錦江湾の湾奥には丘陵広がる自然豊かな土地だ。海岸線で釣りを楽しむ人の姿に交じって目立つのが、看板の「酢」という文字と黒光りする陶器製の壺が並ぶ“壺畑”。福山町は、今では健康食品としてすっかり定着した黒酢発祥の地。太陽エネルギーを利用して黒酢を醸造するための壺が整然と並ぶ風景は、この地域特有のものだ。

江戸時代後期に創業した「坂元醸造」は、この地域一帯で200年以上続く壺造りの伝統的な醸造製法を途切れることなく継承している。坂元醸造の黒酢造りの歴史は、地域の伝統に真摯に向き合い続けてきた人と土地の魅力に溢れていた。

子どもたちを見守るように、醸造に向き合う職人たち

坂元醸造の黒酢をふんだんに使った酢豚や酸辣湯麺が人気のレストラン「壺畑」。ガラス張りの建物からは桜島と錦江湾が一望でき、そんな絶好のローケーションに負けず劣らずの壺畑が、レストランのすぐ下にも広がっている。

「坂元醸造の黒酢は屋外に並べた陶製の壺に原料を仕込み、太陽エネルギーと微生物の力を借りて、1年以上かけ発酵・熟成させ、収穫の時を迎えます。いつしかこの場所は“壺畑”と呼ばれるようになりました。現在、壺畑は10ヵ所、壺の総数は5万2千本あります」

黒酢のまろやかな酸味と芳醇な香りが漂う壺畑でお話をお伺いしたのは、坂元醸造の醸造技師長である坂元宏昭さん。醸造技師とは坂元醸造独自の資格を持つ職人で、黒酢の製造管理を担う最重要ポジションだ。技師の試験資格を得るためには10年以上の入社歴に加えて、黒酢製造に携わる醸造部で5年以上勤務経験が必要だという。

「醸造技師は黒酢の仕込みや日々の管理を行っています。仕込みは春と秋の年2シーズン。同じ日に仕込んでも、発酵の進み具合いが違うんです。『この壺は発酵が遅れているな』というのもあれば『順調に進んでいるな』という壺もあります。子どもの成長速度がおのおの違うように、黒酢造りも子育てと同じだと考えています」

黒酢の醸造に関わる社員14名のうち、醸造技師は7名。ベテラン醸造技師が竹製の攪拌棒を片手に黒酢の出来具合を一本一本手際よくチェックする姿は、傍目で見ていてもつい感心してしまう。

「一週間に一度は必ず発酵や熟成具合をチェックしていています。壺の蓋を開けて見える黒酢の表面を“顔色”と呼んでいて、今どういう状態かを顔色からも判断します。『お酒の香りがするから、これはもうアルコール発酵に入っているな』とか、アルコール発酵の際のボコボコという発酵音も判断の目安になります」

技師たちが五感を駆使して発酵管理、熟成管理に向き合う期間は仕込みから最大で5年。熟成するにつれて味はコクを増し、まろやかにものに。その色合いも褐色から黒褐色に深みを増していく。

福山町の歴史と風土が生んだ奇跡の産物

黒酢の原料は国内産の米と地元で湧き出る地下水と米麹の3つだけ。黒酢造りが始まった1800年代の薩摩藩時代の福山町は交通の要衝として栄えた港町で、福山港を経由して物資を鹿児島市まで運んでいたため、黒酢造りに必要な米や壺が入手しやすい場所だったのだ。

「たとえ他のところに原料を持っていっても、この黒酢はできません。この丘に囲まれた気候が一番適しているんですよね」という坂元さんの言葉通り、福山町は黒酢造りに最良の環境を提供している。三方を囲む丘と海岸沿いのこの地域は、黒酢の発酵に適した温暖な気候だ。約25,000年前にできたカルデラ壁の中腹には豊富な地下水が蓄えられ、薩摩藩時代には「廻(めぐ)りの水」と呼ばれた名水として折り紙付きのものだった。

「福山地区で200年続く製造方法は世界でも類を見ない製法なんです。本来酢の醸造には酵母と酢酸菌を入れる必要があります。しかし、壺造り黒酢の醸造では麹蔵に住みついた酵母や乳酸菌、陶器製の壺に住みついている酢酸菌が必要な時期に働いてくれるのです」

一つの壺の中で糖化、乳酸発酵、アルコール発酵、酢酸発酵が自然に進行するという、世界でも珍しい製法を可能にしているのが、直径40センチ、高さ62センチ、容量54リットルの陶器の壺の存在だ。

「もっと大きな壺で造ることができれば楽なのですが、この大きさの形の壺でないと黒酢はできません。このサイズの壺に太陽光が当たることで、壺の中の温度が発酵に適した温度になるのです。未だになぜこの製法が始まったのかはわかっていないのですが、研究でもこの製法が理にかなっていることがわかってきています」

歴史的背景と自然環境の見事なマッチング。そして、太陽エネルギーと微生物の力借りて黒酢を生み出す魔法のような壺。これらのめぐり合わせが揃う場所は、世界中見渡してもそうそう見つからないだろう。

時代の荒波を乗り越え、唯一無二の地域資源に

地域の伝統技術や工芸が時代の変化により衰退、消滅したという話は数えきれない。この壺造りの黒酢にとっても例外ではなかった。安く大量に生産できる「合成酢」の登場、さらに戦時中には原料不足という致命的な苦境に見舞われた醸造所が次々と転業していく中で、伝統製法を守り通したのが坂元醸造だ。

「太平洋戦争の影響による米不足が原因でお酢を造れなくなってしまい、戦前24軒あった醸造所のほとんどが次々と廃業していきました。しかし、うちだけは原料をサツマイモに変えてでも伝統製法を続けることを諦めませんでした。戦後も細々と黒酢を醸造していたのですが、先々代も息子には『大変だから家業は私の代で辞める』と話したそうです」

しかし、人生の綾は不思議なもので、父の言葉に従って先代が薬剤師の道に進んだことが健康食品としての黒酢の飛躍に繋がる。

「先代はお父さんの作った黒酢を、開業した薬局に置いていたようです。病院の患者さんに飲ませてみると、様々な体調不良に改善がみられるとの声を聞きました。それをきっかけにして黒酢造りを本格的に再開したそうです」

1975年(昭和50年)に、それまで福山酢や壺酢などと呼ばれていたものを先代が「黒酢」と命名。その後、さまざまな研究機関で黒酢の研究が行われ、普通の酢よりもアミノ酸やペプチドの含有量が多いことが判明し、口コミなどが広まるにつれて健康食品としての認知度を高めていった。さらに2010年代の健康ブームに乗って、一気に全国に知られる健康食品として花開いたのだった。

「今でもこの伝統製法を続けられているのは、先々代が残してくれたからにほかなりません。2015年(平成27年)には『鹿児島の壺造り黒酢』として、『地理的表示(GI)保護制度』(その土地に根付いたブランド産品を地域の知的財産として保護する制度)に登録されました。福山町だけでも7社の醸造会社で協議会を結成し、製法を守っているんですよ」

先々代が逆境に挫けず守り通した末の福山町の名産は、観光を支えるかけがえのない地域資源となっている。

時代を越えて継承する伝統が、現代で輝く

「子どもの頃は、この壺はなんだろう?ぐらいにしか思っていませんでした」と笑顔を見せる坂元さん。生まれ故郷で坂元醸造に入社して25年ほど、醸造技師としても10年近くになる今も日々勉強だという。

「いろんな発酵過程があるので、工程ごとにどのように対応するかなど、勉強しなければならないことだらけです。黒酢造りに明確な答えはないので、とにかく経験を積んで体で覚えていくしかありません。思い描いた方向に発酵が進んでいく時の達成感は格別で、本当にやりがいのある仕事だと感じています」

壺の上に親指大の石が無作為に置かれている。これは、ベテラン技師が「すごくいい状態だよ」と若い職人に教えたりするための目印だという。坂元醸造には20代や30代の社員が多く、30代の醸造技師も誕生している。「伝統製法を下の世代に受け継ぐのが一番難しい」と坂元さんは指摘するが、次世代へのバトンは着実につながっている。

「200年前からの製法を守り続け、後世に残していくことが今後の目標です。全国の人にこの黒酢の魅力をもっと伝えていきたいですね」

健康食品として知られる黒酢は今、環境にやさしいスローフードとしてあらためて、その製造方法が脚光を浴びている。

「黒酢を収穫した後に残る“もろみ”の部分を絞り、粉末状にして錠剤やカプセルに活用しています。廃棄するところが全くないんですよね。SDGsが叫ばれる以前から持続可能な製法を実現しています」

黒酢を生んだ数々のめぐり合わせの“奇跡”と、その製法を200年間以上守り続けた職人たちの情熱と努力の“軌跡”。2つの“キセキ”を育んできた黒酢の魅力はオンリーワンな地域の宝として、これからも輝きを増していくだろう。

Photo:辻茂樹

坂元醸造

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