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古戦場を観光地に!?有名地域の持つ課題とそれに立ち向かう人々

歴史の教科書で誰もが習う「関ヶ原の戦い」。この戦が行われた地・関ケ原は岐阜県の南西部・西濃地方にある。西濃地方で最も人口が少なく過疎指定された町は2022年現在、新設された拠点と戦国時代の古戦場の再整備により、歴史ファンに限らない幅広い層の観光客の誘客を目指している。

20年以上孤軍奮闘する自治体、民間のキーマンお二人が考える、歴史に彩られる関ケ原の未来とは-。

「関東・関西」呼び名の由来となった関ケ原

歴史好きでなくとも、日本人であれば歴史の中で“関ケ原”の名を一度は聞いたことがあるだろう。しかしもしかすると、関ケ原がどこにあって、どんな場所なのかを知らない方もいるかもしれない。

関ケ原は、名古屋駅から関ケ原駅まで電車を乗り継いで50分ほどの場所にある。滋賀県との県境が近く、琵琶湖のほとりまでは車で30分ほどだ。

現代の公共交通機関で考えれば、決してアクセスが良いとは言い難い。しかし、時代をさかのぼってみると、旧街道である中山道や北國街道、伊勢街道などが交わる場所で、往来も多く宿場町として発展した。“関所がある原っぱ”から関ケ原と呼ばれるようになった説もあり、関東・関西の呼び名もここから来たと言われている。

日本の東西を分ける中心であった地。織田信長、豊臣秀吉など天下布武を目指した武将たちが、この場所を重要視するのは当然のこと。混沌とした戦国の世で、ついにここで誰もが知る「関ヶ原の戦い」が行われることになったのだ。

知名度バツグンの関ケ原だが、なかなか観光PRがうまくいかない時期もあった。

そこには、岐阜県内全域には大型観光地が多い、そんな皮肉な理由も見え隠れする。

岐阜県は5つの地域に分かれる。中でも代表的なのが飛騨地域だ。

合掌造りでおなじみの白川郷や、日本でも有数の観光地・飛騨高山、日本三名泉の下呂温泉郷などが北部に集中する。

その他にも、国内の盆踊りの代表格として知られる郡上おどりがある郡上市、刃物で知られる関市がある中濃地域、栗の産地でありかつ美濃焼が盛んな東濃地域、中核都市である岐阜市や鵜飼で有名な長良川有する岐阜地域。残る西濃地域の観光面は「関ケ原」の認知度に頼ってきた面もあったのかもしれない。

観光資源が多すぎることがPRの分散につながるとはいささか皮肉だが、岐阜県は多様な文化を持つ個性的な県と言っていいだろう。

これまで関ケ原が積極的な観光PRに及び腰だった理由のひとつに、マーケティングする難しさもあった。歴史ファンなどにターゲットを絞った売り込みを行ったことで、専門家や歴史マニアは喜ぶものの、幅広い層にとっては堅苦しく、分かりにくいスポットと認識されてしまう結果に。

いわゆる“マニアック観光地”としてのレッテルが貼られてしまった。

2000年代前半、時代が追い付いてきた

西暦1600年に勃発した天下分け目の決戦・関ヶ原の戦いは、東軍を徳川家康が、西軍を石田三成が指揮し、15万人が参戦。日本全国の武将を巻き込んだ、日本史上最も大きな戦いとなった。東軍の勝利により江戸幕府が開かれ、安定した社会を築く一歩となった。

そんな戦から400年後の西暦2000年、「関ケ原合戦400年祭」が開催された。そのイベント企画に携わったのが、稲川良夫さんだ。

稲川さんは岐阜県大垣市に生まれ育ち、京都の大学へ進学。大学時代にはクイズ研究会を立ち上げ、当時ブームだった「アメリカ横断ウルトラクイズ」に参加、なんと優勝経験も持つ。歴史専攻ではなかったが、小学生の頃からテレビの歴史ドラマに興味を持つ、歴史ファンだ。

イベント企画会社の立ち上げに加わり、現在も勤務しながら関ケ原の盛り上げに一役買っている。

もう一人のキーパーソンは富田真一郎さん。関ケ原の隣町である垂井町で生まれた。子どもの頃から歴史が好きだったこともあり、大学では考古学の道へ。関ケ原町役場へ就職し、現在では関ケ原古戦場の整備、PRなど観光施策全般に深く関わっている。

1988年に開催された地方博覧会「ぎふ中部未来博」の成功をきっかけに、イベントによる地域活性化を目指してきた岐阜県。稲川さんはそんな中、西濃地域のイベントに数々携わってきた影の立役者だ。

関ケ原合戦400年祭の企画をやらせてほしいと、何のコネもなく飛び込んだのも稲川さんだった。

2000年に開催された関ケ原合戦400年祭では、関ケ原合戦の布陣図にある東軍西軍合わせて44隊を、実際に甲冑をつけた800人の武者で再現した。史実通りの場所に布陣した各隊が、主会場まで実戦さながらに行軍し、集結した全軍により戦の様子を再現する合戦絵巻」が行われた。

2008年には関ケ原町制80周年イベントとして「関ケ原合戦祭り」が初めて開催された。その時稲川さんは、世の中の空気が変わっていることに気づいた。

「戦国ゲームのブームにより、2000年開催の400年祭当時は中高年が多かったのに、ガラッと客層が変わっていたんです。特に若い女性たちが参加するようになり、戦国時代や戦国武将への関心が高まっていることがはっきりと感じられました。しかし、イベントだけでは次へと続いていかない。観光やまちづくりと連動していくことが大切だと感じました」(稲川さん)

さらに、町役場勤務の富田さんは続ける。

「イベントが開催され外から多くの人たちがやってきたことで、地元にはおもてなしの雰囲気が生まれ、ボランティアガイドの育成なども盛んになっていきました。しかしそこからの広がりは思ったようにはいきませんでした。一般の人に分かりやすく紹介していく必要性を感じました」

知名度のある関ケ原ですら、地域を盛り上げていくことは容易くない。日本中どこでも苦戦する地域づくりの難しさを痛感する言葉だった。
関ケ原町は、周辺観光地からの誘客、また露出の多い歴史ドラマなどの影響力を活かしきれていないことが露呈。またそこに、人口減少も追い打ちをかけることになった。

そしてついに2014年、岐阜県及び関ケ原町による、関ケ原町内に点在する古戦場の整備などを見据えた観光施策が検討されることになった。

一般観光客が歴史を楽しめる工夫を詰め込んだ「関ケ原古戦場記念館」が開館

2014年に開催された「関ケ原古戦場グランドデザイン策定懇談会」を皮切りに、古戦場としての関ケ原の問題点の洗い出し、それに対する対策などが検討された。

問題点として検討された項目には、稲川さんや富田さんが感じていた「関ケ原の地域資源を活かしきれていない点」も含まれていた。古戦場としての雰囲気やイメージが希薄なこと、史跡の歴史的価値が十分保全・活用されていないこと、歴史の真実や面白さやドラマティックな情景を伝える工夫に欠けること、一般観光客が楽しめる設備や工夫に欠けることなどが挙げられた。

そして、町をまるごと古戦場へと生まれ変わらせ、歴史ファンが納得する”本物の存在価値”をアピールすることを決定。合わせて、物語性をはっきりと打ち出し、一般客、ひいては外国人観光客にも楽しんでもらえる関ケ原を作ることを方針とした。

そしてついに2020年10月、「岐阜関ケ原古戦場記念館」がグランドオープンした。

現在は、関ケ原を訪れた誰もが、その世界観を体感することができる。

関ケ原駅を降りたところから記念館へと向かう道には、戦国武将や関ヶ原の戦いの陣容が描かれたパネルが飾られている。

記念館を目前にして、遠くに古戦場が見えてきた。幟がはためく光景は、ひと目見てはっきりと、そこが史跡であることが分かる。写真は黒田長政の陣地跡で、記念館計画に際し整備された古戦場のひとつ。

駅から記念館までは徒歩で7~8分。記念館の外観は、櫓をイメージした展望塔や甲冑のような外壁、日本刀をイメージした軒先と天井木ルーバーなど、戦国の世を想像させるデザインだ。

記念館の最も目玉となるシアターまでには、まずテキストをヴィジュアルに落とし込んだ映像が流れる幻想的な回廊を通る。

高揚感を高めた上で床面スクリーン「グラウンド・ビジョン」を使った関ケ原合戦の説明が。そしていよいよシアターでは、風や振動、光と音の演出による合戦の様子が映される。まるで自分もその場にいるような感覚で、武者の目線でリアルに体験できるのだ。


(写真提供:岐阜関ケ原古戦場記念館)

シアターで関ケ原合戦を学んだ後は、展示室での資料観覧、そして展望台へと進んで古戦場を一望し、実際の史跡巡りへと向かってもらう、完璧と言っていい動線が用意されている。史跡巡りのための観光情報センターやレンタサイクルの貸し出しなども用意されているので、この地域に詳しくない観光客のフォローや町内の足の準備も万全だ。

記念館の周囲2キロ以内だけでも20か所以上の史跡がある立地も、記念館の役割を引き立てる。

これを“劇場型観光地”とでも呼ぶのだろうか。

関ケ原の地を舞台に、観光客は知識から湧き出るイマジネーションを使いながら観光できる。まさに目の前で合戦が行われているような気持ちになれる、日本で唯一の観光地かもしれない。

古戦場ほか史跡の活用方法を探りながらも、自治体は民間と手を取りながら町の活性化につなげていった。足下を固める大規模な構想を掲げ、西濃の設計図を描いた県に対し、町は各施設の環境整備、誘導サインの整備、史跡ガイドの養成など、小回りの利いた動きを取る。

「記念館の構想が作り上げられてきた頃から、町民による草刈りボランティアが始まりました。町を盛り上げたい若手による休耕地を利用したコスモスの植栽も行われています。少しずつですが町民の意識も変わりつつあり、我々町役場としてもそれらをバックアップしていきたいと考えています」(富田さん)

また稲川さんは、古戦場整備を終えた関ケ原を見て、観光客の受け止めの変化をはっきりと感じた。

「現在、関ケ原に来てもらっている観光客の皆さんは、戦国時代そのものを実際の景色に重ねながら散策されている。若いお客さんは笹尾山(石田三成陣跡)に立っていると、東軍が攻めてくるのが見えると言います。観光に携わる民間企業も、これからは21世紀型観光=感じる観光を提供していかなければならないと思います」(稲川さん)

記念館は、その大きさゆえ観光の目玉として存在感を放つが、単なる箱物に終始しない工夫が詰め込まれている。

関ヶ原の戦いの歴史を伝え、古戦場の魅力を紹介し、そこから町に広がる古戦場。さらには、もっと広域の観光につなげて滞在時間を長くし、地域資源を最大限に活用していくための仕掛けがある。今後、大型施設を建設することによって観光を推進したい市町村にとっては、参考になるかもしれない。

関ケ原が未来へ向けて描くグランドデザインとは

6年間をかけた古戦場整備と岐阜関ケ原古戦場記念館の開館により、注目度を集める機会も増えてゆく観光地へ。

これからの展開について、また関ケ原で叶える夢について、稲川さんと富田さんに語ってもらった。

「関ヶ原の戦いは、全国の武将が集まって戦ったもの。関ケ原は天下分け目の『戦いの舞台』であると同時に『集いの舞台』であり、東からも西からも集まりやすい土地柄なのです。そんな場所だからこそ、ぜひ全国の人に一度は関ケ原に足を運んでもらいたい、繰り返し訪れてほしい。関ケ原合戦ゆかりの全国自治体ネットワークを作り、“関ケ原サミット”を開きたいと思っています」(稲川さん)

「史跡を守っていくことは、実は簡単ではありません。せっかく当時の雰囲気、景色を感じられる関ケ原であるのに、現代的な開発をされてしまっては元も子もありません。何もない空間こそが町の宝なのです。我々がこれからすべきことは、古戦場景観の維持、そして10年、20年先を見据え、今以上に古戦場を磨き上げていくこと。関ケ原は戦地ですが、東軍勝利により徳川260年の歴史が始まり、平和がもたらされました。ナポレオン戦争の激戦地であるワーテルロー古戦場(ベルギー)、アメリカ南北戦争の激戦地であるゲティスバーグ古戦場(アメリカ)と共に表明した「世界古戦場サミット共同宣言」を通して、古戦場の歴史的な意義と平和の尊さを発信していくことも大切だと考えています」(富田さん)

二人は口をそろえて言う。多くの武将が命を懸けた戦が繰り広げられたこの地へ来たら、きっと歴史感覚も変わるだろう、と。日本を二分した大きな戦であったからこそ、ストーリーは奥深く、知れば知るほど人間味あふれる話が聞こえてくる。

“推し武将”を探してみるのも楽しいかもしれない。お話を伺ったついでに、お二人にも好きな武将を聞いてみた。

富田さんは東軍・黒田長政。頭脳プレーに長け、交渉力を持つ人物だ。そんな人物像に憧れがあるそうだ。

なんと名刺入れも黒田家家紋・藤巴(ふじどもえ)だった。

稲川さんは西軍・宇喜多秀家。豊臣秀吉からの厚い信頼を得た武将。秀家の豊臣家への一途な忠誠心に、尊敬の念を抱くのだという。

戦国のあらゆる要素が詰まっている場所、そこが関ケ原。このブランドを観光に最大限生かしていくことが重要になる。

記念館が完成して2年。コロナ禍で動きが取れない中、いよいよ正念場はこれからである。記念館を中核に、稲川さんは様々なイベントの開催を、富田さんは地域の保全や町民との連携を模索しながらこの町を育てていく。

2022年10月8日から10日まで、記念館がオープンしてはじめての大規模イベント「大関ケ原祭2022」が開催される。外壁のプロジェクションマッピングやタレント、歴史家などのトークショーなどとともに、東西クイズ対決、東西お国自慢ステージといった様々なイベントが行われ、2万人ほどの来場者を見込んでいる。

これを機会に、戦国の歴史ステージ・関ケ原を訪れてはいかがだろうか。

(取材・文:西村愛)

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